仕事と心のDiary

デトックスのための文章

色気は抑圧と孤独のもとに育つ

色気について考える時、しぐさだとかファッションだとか、そんな小手先のもので何が生まれるのだろうかと思う。

 

色気というのは思い通りにいかないこと、折り合いをつけていかなければならない抑圧の中で生まれるように思う。満ち足りた順風満帆な日々の中に、本物の色気は根付かない。

 

欲望は、際限なく湧き出てくるものなのだ。たとえば「お腹いっぱいになるまで沢山食べたい」とか、「ストレス溜まっているから当たり散らしたい」「振られたけど私は絶対に諦めきれない」とか。そうした自分の欲望を抑えることこそが、生きる上で最も苦しく大変なことなのではないかと思う。それが出来るかどうかが動物と人間の違いだ。うまくいかないことばかりなのだ、人生はきっと。

 

際限なく溢れる欲望を際限なく満たしていたら、太る。我がままになる。人として醜くなる。「そうなってもいい」と振り切れてしまった人は、一番強いのかもしれない。けれど、優しさや自分への厳しさから、そこまで振り切ることができない人。そういう人に色気を感じることが、自分の場合は多いような気がしている。

 

色気は知性だとよく聞くけれど、それはおつむがいいとか雑学に詳しいとか、いわゆる知識の側面ではないのだと思う。自分が辛い時にも、人のことに少しの意識を向けられる思慮深さ。自分の孤独を、自力で昇華させようとする潔さや優しさ。人と自分自身の境界線をわきまえる謙虚さ。そういった知性の中に宿るのが色気。その人の生き方や美学そのものなのだ。

 

美学は大抵、やせ我慢の上に成り立つ。「自分を裏切った相手には舌を噛んでもすがらない」とか、「醜くなるから少量で控える」「人に悲しい思いをさせたくないから内にしまっておく」などの、外見の美醜とはおよそ関係のない、その人自身の「退き際」に対する姿勢にも色気は宿る。だから奥深く、誰もがそれを纏うことに憧れる。そんな気がする。

 

「欲しいものは何でも手に入れる」というような自由な人に野性的な色気を感じるのは、何だか少し違う気がする。そうしたエネルギーに滲むのは、色気ではなく生命力だ。色気は自我から一歩退いた所にある。前へ前へ出ることとは違う。

 

日々の心の持ちようとその積み重ねによって、いつの日か自分でも気づかないうちに滲み出ている。自分自身ではなく、周りが感じ取るもの。そんな掴みどころのない、秘められた魔力。何か、とても日本的なもののような気がしている。