仕事と心のDiary

夜になったら色んなものを脱ぎ捨てよう。

恐怖ではなく希望のもとに選択をする

最終出社日以降、数日は映画を観に行ったり出掛けたりしていたんだけど、コロナの影響で外出制限もあったりなので、借りているマンション→実家に戻って行動最小限の日々。それにしてもコロナ早く落ち着くといいなぁ。

 

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「3月は気持ちの乗らないことは一切しないようにしよう」と決めてここまで来て、今でも次のことはあまり考えないままです。

 

休んでいるとたまに「今の自分なら次のことを考えられそう」という気持ちの波が来て求人を見たりするけど、やっぱりまだ就業が怖い自分の方が勝っていて、足踏みしています。

 

最終出社が終わった後の私は、終わった!という気持ちもあると同時に体も頭も疲れ果てていたんだけど、何日か経つと少し落ち着いてきて、その時に改めて思ったことがあって。

 

自分はどれだけ狭い価値観に今まで縛られてきたのか、ということ。

 

静かな部屋で好きなお茶を飲んだり、ゆっくりお風呂に入ったり、好きな映画や本を読んだりする中で少しずつ体と心が回復してきて、自分がすごく自分を苦しめていたんだということに気づくようになりました。

 

働くことの一番の目的は、やっぱりお金なんだと思います。お金は黙っていればどんどん無くなっていく。それを補うことが仕事をすることの一番の理由です。やりがいを求めてボランティアをしたりすることがあっても、どこかで対価が発生する「労働」をせざるを得ないんです。食べていくために。

 

だけどその「お金を稼ぐ」という方法も、期間も、実際には「こうしなければならない」なんてまったく決まっていない。どのぐらい必要なのかということも、どの程度労働に時間を割くかということも、必要な環境は人によって違うのです。

 

私には今まで、こんな価値観がありました。

・出来れば正社員でないといけない

・1つの企業からしか給料が得られない

・通勤する時の満員電車は付き物

・給料をもらうのだからストレスは「絶対に」避けられない

・間髪いれず働き続けないといけない(ブランクは許されない)

・絶対に働かないといけない

・仕事は何よりも優先させなければならない

・仕事は適当にやることなど許されない ・・・etc

 

きっと、こんな価値観に縛られていた私は、毎日鬼のような形相だったんじゃないかと思います。自分の笑顔や、楽しみを差し置いて、我慢に我慢を(勝手に)重ねて働いていたのですから。

 

でも、自分が「絶対だ」といつの間にか決めてしまっているこうした価値観って、外してみても意外と大丈夫だったりするのではないか?と最近気づきました。

 

・正社員にこだわらなくても対価は得られる。

・2つの企業に所属したっていい。いくつも柱を持っていい。

・通勤しない働き方を選んだっていい。

・ストレスなく働いている人が世の中にはいる。

・ブランクが空くと働けないだなんて、誰も決めてない。

・自分が食べられて税金払えるなら働かなくていい。

・仕事を優先順位1位にしなくてもいい。

・できない時は「できません。」と言ってもどうにかなる。

 

どうにかなるんです。生きられないってことはありません。ただ、自分の心が恐怖の中にいると、狭い価値観がいつの間にか作られて、「絶対にこうでないと自分は生きていけないんだ」と自分を苦しめることになります。

 

だから恐怖の中で生きることをもうやめて、願望の中で生きてみればいい。MUSTではなくWANTの世界で生きるということが必要なのだと思います。

 

私は前の会社に通勤していた時は既にもう数年に渡って希望がなくなっていた(=この仕事していると(少しでもいいから)楽しい!という気持ちや感謝が持てなくて、日々の嫌なことを消化するのに精一杯。楽しいことを見つけるのも疲れた、早く寝たい、という状態でした)のもあって苦しかったです。

 

年収がまぁ良いという理由だけで、その他のストレスをすべて自分に我慢させていた。

 

給料については、まず「月収」や「年収」と自分の市場価値の比較というのは判断が本当に難しい時代だと思うんだけど、自分が不自由なく暮らすにはカバーできていた金額だとは思います。

 

でも、そのお金をもらう代わりにオフィスで毎日「嫌だな、怖いな、辛い…」という気持ちで過ごし、気づいたらよく考えたら欲しくもないものに散財している。自炊も掃除もままならず、ただただ「外にでるのが面倒」という気持ちで週末を過ごす。月曜になるのが、怖ろしく早い。

 

働いていた頃は、自分の頑張りなんて本当にちっぽけだとよく思っていたけど、自分もあの狭い中で自分なりに当時は頑張っていたんだな、偉かったな、辛かったんだよねと、休んでから初めて思うことができました。

 

働いている当時もそう思おうとしていたんだけど、実際には心からそう思うことは出来ていなかった。客観的に自分のことを眺める余裕がまったくなかったからです。

 

ホッと一息ついた時のコーヒーが最高に美味しいとか、ちょっとした同僚との会話が楽しいとか、今日は帰ったらこれがあるから頑張ろうとか、そういう風に感じられることが幸せってことなんだということにも気づきました。

 

私はここ数年、そういうことは「無駄なこと」として、一切をスルーしてきました。そんなことをいちいち感じていても何も生まれない。そんなことをしている間にひとつ仕事を片づけたい。とにかくたくさん処理したい。合理的でないことはしたくない。

 

今考えるとロボットみたいだけど、私はそんな風に毎日を過ごしてきました。

 

だから、確かにこの年齢で立ち止まることは、価値観に凝り固まった自分からするとすごく失敗だし、怖いし、不安も大きかったですが、裏を返すと逆にこの休みの期間が私の命を救ったのかも知れないとも思います。

 

だって、ただ通勤して、ただ机に座って仕事をして、食べて寝て、無機質に1日を終えることが「生きる」ということではないから。

 

面白いものを観て笑って、誰かと一緒に話しながら美味しい食事をして、ありがとうごめんなさいと言って、私はこれが好きなんだよね~と言いながら没頭して、だから辛いことも頑張れて、そういうのが積み重なるから人は幸せを感じるんじゃないかと思います。

 

誰かにとってはきっと超・今更なこういうことも、心を無にしていた私には遠い価値観でした。

 

私、仕事していた頃、「あー今日もあと○○時間もあるのか…」と毎日必ず1回は考えていたんですよ。早く今週が、今年が、私の人生が終わらないかな、って、大袈裟なようだけど今振り返ると本当に思っていました。

 

どんないい給料に仕事をするより、真面目に業務を終わらせるより、こんな考え方で生きていくことを終わらせる方が人間にとってはきっと大切です。

 

頑張っていたのに、それに比例して魅力の無い自分になっていっていたのですから、怖いことです。

 

最終出社が終わってしばらくは、TVを見ても笑えないし、次どうしようって焦ってしまっていました。でも、「私本当に何かに急き立てられながら今まで生きてきたんだな」ってことに気づいて、そこからは逆に「焦らないで自分を休ませられる自分になること」が仕事を探すより何より自分に一番必要なことだと思うようになりました。

 

私にとっては、仕事をすぐ探すよりも休むことの方がはるかに難しいことだったんだけど、それを思い切ってしてみると、「何かダメな自分でも案外大丈夫なのかな…」とか、「別に何しても生きていけるんだな」と少しづつ思えるようになります。

 

恐怖の中にいると、「早く働かなければいけない」「こんなに休んでいてはいけない」という焦りから行動して、また元の自分と同じになってしまいます。

 

それを、「こういうことをして人と関わりたい」とか、「こういう生活で対価を得たい」っていうWANTの中で行動するように変えたいし、その時に感じるわくわくが人生には必要なのかなと思います。

 

私の頭の中に敷かれたレール(固定観念)は多分かなり強固なものなので、崩す時は怖いです。

 

前の職場で働いていた時、もう限界を迎えつつあったので「できません」と最後の方で結構言うようになっていたんだけど、案外それでも問題なかった記憶があって、拍子抜けしたのを覚えているんですよね。

 

「できません」と言って、それがミスになっても案外大丈夫だったり。

 

私と同じように、自分の価値観から抜けられなくて苦しんでいる人がもし他にもいたら、「実は誰もあなたに”〇〇でなければならない”などと言っていないし、仮に言っていたとしてもそれはその人の価値観を押し付けられているだけ」ということに気づいて欲しい。

 

ただ、自分が望む条件のためにそれにチャレンジしていく、ということが大切なのだと思います。

 

自分に必要な保障があるのなら○○として働く、なりたい自分になれるのなら〇〇を選ぶ、といった感じです。例えば「どの大学を出たからこう有らなければならない」「親がこうだからレールから外れてはいけない」ということではなくて、「そのレールに乗る努力も出来るし、降りる自分を選ぶこともできる」ということ。

 

自分の幸せは自分にしか分かりませんが、恐怖ではなく、愛や希望の中で物事を考えられるようになれたらと思います。