仕事と心のDiary

デトックスのための文章

一本道ではない働き方と人生

もう社会人になって10年目だけれど、たまに学生時代のアルバイトのことを思い出すことがある。コンビニ、カフェ、出版社、そして単発も含めたら飲食店やメイクアップアーティストの通訳など10種類ぐらいの仕事を経験した。やってみたいことにはとにかく首を突っ込んでいた。

 

コンビニで仕事をしている時は、レジのキーを押すあの「カチカチ」という音と、爪の綺麗なOLさんが払込票と一緒にお菓子やアイスをレジ代へ置く姿を見るのが好きだった。お祭りの日に唐揚げ棒を100本焼いたり、おでんのケースに入った虫を取り除いたりと大変なこともあった。ちなみに私はそれを経験して以来、コンビニでおでんを買えなくなった。

 

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コンビニで仕事をしていると、色んな人の人生が見えた。毎日かならず『ワンカップ大関』をひと瓶だけ買っていく常連のおじいさんは、多分、ワンカップ大関が飲みたいだけで店に来ているのではないのだと感じた。夜の9時過ぎにお酒とつまみを大量に買い、大型の車に乗り込んでいく若いギャル男たちを見て、その後彼らに続く長い夜を想像したりした。

 

煙草の銘柄を覚えるのは大変だったけれど、何年か経つとどのお客さんがどの銘柄を買っていくかが分かるようになった。綺麗なお姉さんがセーラムピアニッシモを買っていくと、自分も吸うなら絶対ピアニッシモだと心に決めたりした。そういうのが好きだった。

 

人魚がトレードマークのカフェで働いたこともあるが、それは完全にミーハーな気持ちからだった。”勉強の合間にカフェで働く女子大生”というのがしてみたかった。そしてそのカフェで出しているデザートみたいな甘いコーヒーが、私はとても好きだった。

 

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憧れのカフェ店員となった私は、高い時給と個人プレーの気安さを捨てることになった。そのカフェは人気があるブランドだったせいか、時給は安かったし、バー(エスプレッソを入れるマシーンがある調理スペース)の中ではガチガチのチームワークが求められた。ある意味、そのカフェが出しているドリンクに自分自身も陶酔できなければ、バーに入ることが許されない。バーは働くメンバーにとって、まさに神聖な領域。そう感じていた記憶がある。

 

他のカフェにも言えるが、ドリンクは店員が作るので、レシピを頭に入れておかないといけない。レシピはキャラメルラテならキャラメルシロップを何プッシュ入れて、ショットを入れた後でミルクをどこまで入れるか、という具合に。また、定期的に各地の店舗から店員が集合しての研修や勉強会もある。

 

ラテなどに使うミルクも泡立て方が決められていて、機械でフォームミルクを作る時に「ちゅるちゅる」という小さな音ならOK、「ガガガガーー」「ズゴゴゴーー」という騒がしい音がしたらキメが荒くなるのでNGという基準が設けられていた。客はそんなこと知らないと思うが、自分の点てているミルクがガコガコいっている時は穴にでも入りたい気分になった。

 

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当たり前だが、ドリンクの値段はメニュー表ではいつも一定だ。でも、店員の腕によって品質が大幅に変わることもある。これを防ぐために、どの店舗もメンバーを研修に行かせ、ドリンクの上手な淹れ方や、デザートと豆の相性についても日々勉強させる。受験を終えたばかりで勉強から離れたかった自分にとって、この仕事はだんだん苦痛になっていった。

 

第一、私はどんなに凄い研修を受けようが、キャラメルドーナツにキャラメルラテを組み合わせることに何の抵抗もない人間のままだった。豆は酸っぱすぎなければ、ケニアだろうがエチオピアだろうが、ありがたくいただける。研修に行っても、時間を消化するためにとりあえず書き留めただけの、血にも肉にもならないメモばかりが増えていった。

 

何とか続けていたある時、ものすごくエスプレッソ愛に溢れた、テンション高めの男性がアルバイトで入ってきた。ドリンク名に掛けて流行語のようなものを生み出し、メンバーに覚えさせたり、疲れていると聞き逃してしまうようなギャグをいつも連発したりと、明るいがとにかく暑苦しい男だった。会話も喋りのテンポも、低血圧な自分とはまったく噛み合わない。彼と二人でレジやバーへ入る時は、いつも顔の変な場所の筋肉が痛くなった。

 

良くも悪くも、若干宗教のような環境だったと今は思う。(※あくまで個人の主観です。色んな店舗があるし、私が働いたのはもう何十年も前のことです。好きな方、働いている方がご覧になってしまったら、その際は申し訳ありません。)

 

私が学生の頃からおそらく欠陥があり、チームワークというものについていけず、またそのカフェは大好きだけど、その”大好き”のレベルも上には上がいるということを知ったため、半年程度で辞めることになった。

 

一番長く続いたのは、出版社のアルバイトだった。大学の友人のつてで働くことになったのだが、どの部署にも近隣の大学のアルバイトがいて楽しかった。記者とデスクがいて、私が担当したのはデスクの集まる部署だった。記者から上がってきた記事をデスクに渡したり、お弁当を頼んだりする。刷りが佳境に入るのは毎日22時過ぎで、マスコミの仕事というのはこんなにも大変なのだと実感した。

 

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新聞社のバイトは忙しい時間帯が決まっていて、それ以外は割と自由な時間を過ごすことができたのもとても良かった。

 

あれだけ好きなことに首をつっこんでいた自分が、就職活動の時にはなぜか好きなことを選んではいけないような気がしていた。正式に給料をもらうのは、自分が”できること”を選ばなければならないという意識を持っていたために、専攻していた法律から進みやすい金融の道を選ぶことになった。

 

今の就活事情は分からないが、当時は総合職の選考が早い時期(年明け~3月あたり)に開始し、そのあと一般職の選考が開始するスケジュールだった。私は当時、不動産業界やメーカーなど、どこから降ってわいたのかと問いたくなるような業界を選び、営業職の面接を受けていた。全滅だった。

 

文具メーカーではオフィス環境整備の提案営業の面接で最終選考まで行ったが、「どんなオフィスを作りたいか」という夢がなかった私は、「その時に会社にあるものを総動員してお客様の希望をかなえたい」というようなまるで積極性のない回答をし、経営陣を失望させた。

 

自分がなぜ選考に落ちたか今では明確に分かるのに、自分がなぜ文具メーカーを希望したのか、その理由は今でも分からない。その当時は色々考えたのだと思うが、私には文房具より不動産より、自分を惹きつけるものが心の中にあったはずなのだ。

 

人の人生や心のことを知るのが好きで、本を読むのが好きで、新しいことを知るのが好きで、文章を書くのが好きだった。人の心に影響を与えるような仕事。それを掘り下げていたら、どうなっていただろう。

 

大学を出たら良い会社に入り、親を喜ばせる。韓国で言う「オムチナ」(=オムニ(母)、チング(友)、アドゥル(息子)をくっつけた造語で、近所で「〇〇さんの息子さんはちゃんとしていて偉いわ、それに比べて…」などと例に出されるような、模範的な優等生の意)になることが自分の道だと思っていた。

 

働くようになってからの私は、つまずいてばかりだった。興味が持てない仕事に、取らなければいけない資格に、社内でも有名だというお局の先輩。お金が直接絡むために、”興味が持てない”の一言では済まされない責任もあった。

 

新人の失敗なんて仕方がない。今だからそう思えるが、当時の自分はそのリスクにがんじがらめになっており、気づいたら社内でも暗黙の了解となっている”事情があってフルで働けない人”(通常のパートさんが多めなのとは別に、休職明けの人など)が集まると言われている部署へ異動していた。

 

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家では泣いてばかりいた。毎日を死んだように過ごした。それは、部署異動したことに対する絶望ではなかった。最初の部署のストレスを、ずっと引きずっていた。

 

そこからのことは、思い出すと今でも心がざわつく。会社が終わった後、親のいる家へ帰るのも辛くて、公園でひとりぼーっと座って数時間を過ごした。自分の体が冷えていようが、翌日も早起きだろうが、どうでもよかった。消えてしまいたいと思っていた。

 

けれど、良かったこともある。最初の挫折だったあの頃があったからこそ、私はそれを解決するための答えが欲しくて自己啓発本を大量に読み、その後の勤め先で普段であれば出会うはずのなかった人達と仲間になり、語学を勉強し、留学した。環境を変えるのは人づきあいの苦手な自分にとって常に困難なことだったが、学生時代に恋愛やバイトに甘んじて自分にちゃんと向き合わなかったことのツケを、一気に回収したのが20代だったように思う。

 

それでも未だに、気を抜くと自分が望んだものを選んではいけない感覚に戻り、「なぜそちらへ行く?」というものを世間体を気にして選んだ結果、疲弊している。ツケを返した気でいても、一度ついた心の癖を治すのはけっこう難しい。

 

多分、人生と言うのは、自分の本心を見ないで進んでも、そのツケをどこかの段階で払わないと強制停止になるようにできてるんじゃないか。それが人間ってものなんじゃないかと思う。とりあえず机に向かい勉強していればよい20年間を過ごしたツケとして、それに向き合う20年がまた自分にやってきたことは、当たり前のようにも感じる。

 

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きれいな一本道はもう望めないけれど、くねった道にはくねった道なりの歩き方があるのだと信じてこれからも生きていきます。