仕事と心のDiary

夜になったら色んなものを脱ぎ捨てよう。

一旦人生振り返り①アルバイト~1社目のこと

もう社会人になって10年目だけど、学生時代のアルバイトのことをたまに思い出す。コンビニ、スターバックス、新聞社、そして単発も含めたら飲食店やメイクアップアーティストの通訳など10種類ぐらいの仕事を経験した。やってみたいことにはとにかく首を突っ込んでいた。

 

コンビニで仕事をしている時は、レジのキーを押すあの感触と、爪の綺麗なOLさんが払込票と一緒にお菓子やアイスをレジ代へ置く姿を見るのが好きだった。お祭りの日に唐揚げ棒を100本焼いたり、おでんのケースに入った虫を取り除いたりと大変なこともあった。ちなみにそれ以来、私はコンビニでおでんを買っていない。

 

f:id:sans---souci:20200514195250j:plain

 

コンビニで仕事をしていると、色んな人の人生が見えた。毎日ワンカップ大関をかならずひと瓶だけ買っていく常連のおじいさんは、ワンカップ大関が飲みたいだけで店に来ているのではないのだと感じた。夜の9時過ぎにお酒とつまみを大量に買い、大型の車に乗り込んでいく若いギャル男たちを見て、その後に続く長い夜を想像したりした。

 

煙草の銘柄を覚えるのが大変だったけど、何年か経つとどの客がどの銘柄を買っていくかが分かるようになった。綺麗なお姉さんがセーラムピアニッシモを買っていくと、自分も吸うなら絶対ピアニッシモだと心に決めたりした。そういうのが好きだった。

 

スターバックスで働いたのは完全にミーハーな気持ちからだった。勉強の合間にカフェで働く女子大生というのがしてみたかった。カフェというのもどのカフェでもいいわけではなくて、スターバックスというブランドが良かった。何となくキラキラしているイメージだったからだ。そしてスタバのデザートみたいな甘いコーヒーが、私はずっと好きだった。

 

f:id:sans---souci:20200514201107j:plain

 

スターバックスというブランドを手に入れた私は、高い時給と個人プレーの気安さを捨てることになった。スタバに憧れる人が多いせいか時給は安かったし、バーの中ではガチガチのチームワークが求められた。ある意味、ドリンクに陶酔できないとバーに入ることが許されない。そんなことを感じていた記憶がある。

 

他のカフェにも言えるがスターバックスでも店員がドリンクを作るので、レシピを頭に入れておかないといけないのに加え、定期的に集合型の研修がある。レシピはキャラメルマキアート(通称キャラマキ)ならキャラメルシロップを何プッシュ入れて、ショットを入れた後でミルクをどこまで入れるか、という具合。

 

ラテやキャラマキに使用するミルクも泡立て方が決められていて、機械でフォームミルクを作る時に「ちゅるちゅる」という小さな音ならOK、「ガガガガーー」「ズゴゴゴーー」という騒がしい音がしたらキメが荒くなるのでNG、という基準が設けられていた。客はそんなこと知らないと思うが、自分の点てているミルクがガコガコいっている時は穴にでも入りたい気分になった。

 

f:id:sans---souci:20200514195849j:plain

 

 スターバックスのビバレッジは値段はいつも一定だが、店員の腕によって品質が変わる。これはあってはいけないことなので、どの店もメンバーを研修に行かせ、どのデザートとどの豆が相性が良いかについてまで日々勉強させる。受験を終えたばかりで勉強から離れたかった自分にとって、この仕事はだんだん苦痛になっていった。

 

第一、私はどんなに凄い研修を受けようが、キャラメルドーナツ(通称キャラドー)にキャラメルフラペチーノ(通称キャラフ)を組み合わせることに何の抵抗もない人間のままだった。豆は酸っぱすぎなければ、ケニアだろうがエチオピアだろうが、ありがたくいただける。とりあえず書き留めた、自分の血にも肉にもならないメモばかりが増えていった。

 

何とか続けていたある時、ものすごくスタバ愛に溢れた、テンション高めの男性がアルバイトで入ってきた。スタバのドリンク名に掛けて造語を編み出してメンバーに浸透させたり、疲れていると聞き逃してしまうようなギャグを連発する、明るいがとにかく暑苦しい男だった。会話も喋りのテンポも噛み合わない。彼と二人でレジとバーへ入る時は、いつも顔の変な場所の筋肉が痛くなった。

 

良くも悪くも、若干宗教のような環境だったと今は思う。(※あくまで個人の主観です。色んな店舗があるし、私が働いたのはもう何十年も前のことです。好きな方、働いている方がご覧になってしまったら、その際は申し訳ありません。)

 

私が学生の頃から何か欠陥があって、チームワークというものについていけなかったため、そしてスタバは大好きだけどその大好きの種類も世の中にはたくさんある(上には上がいる)ということを知ったため、半年程度で辞めることになりました。

 

一番長く続いたのは、新聞社だった。大学の友人のつてで働くことになったのだが、どの部署にも近隣の大学のアルバイトが多くいて楽しかった。新聞社には記者とデスクがいて、私が担当したのはデスクの集まる部署だった。方々の記者から上がってきた記事をデスクに渡したり、お弁当を頼んだりする。新聞の刷りが佳境に入るのは毎日22時過ぎで、マスコミと「伝える」仕事というのはこんなにも大変なのだと実感した。

 

f:id:sans---souci:20200514200151j:plain

 

新聞社のバイトは忙しい時間帯が決まっていて、それ以外は割と自由な時間を過ごすことができた。それも良かった。

 

あれだけ好きなことに首をつっこんでいた自分が、就職活動の時にはなぜか好きなことを選んではいけないような気がしていた。正式に給料をもらうのは、自分がやりたいことではなくて、できることを選ばないといけない。そんな意識を持っていたから、専攻していた法律から進みやすい金融の道を選ぶことになった。

 

今の就活事情は分からないが、当時は総合職の選考が早い時期(年明け~3月あたり)に開始し、そのあと一般職の選考が開始するスケジュールだったと思う。私は当時、不動産業界やメーカーなど、今までの自分はどこに行ったのかと思うような業界を選び、営業職の面接を受けていた。全滅だった。

 

文具メーカーではオフィス環境整備の提案営業の面接で最終選考まで行ったが、「どんなオフィスを作りたいか」という夢がなかった私は、「その時に会社にあるものを総動員してお客様の希望をかなえたい」というようなまるで積極性のない回答をし、経営陣を失望させた。

 

自分がなぜ選考に落ちたか今では明確に分かるのに、自分がなぜ文具メーカーを希望したのか、その理由は今でも分からない。その当時は色々考えたのだと思うが、私には文房具より不動産より、自分を惹きつけるものが心の中にあったはずなのだ。

 

人の人生を知るのが好きで、本を読むのが好きで、新しいことを知るのが好きで、文章を書くのが好きだった。人の心に影響を与えるような仕事。それを掘り下げていたら?

 

大学を出たら、いい会社に入って親を喜ばせる。韓国で言う「オムチナ」(=オムニ(母)、チング(友)、アドゥル(息子)をくっつけた造語で、近所で「〇〇さんの息子さんはちゃんとしていて偉いわ、それに比べて…」などと例に出されるような、模範的な優等生の意)になることが自分の道だと思っていた。

 

働くようになってからの私は、つまずいてばかりだった。興味が持てない仕事に、取らなければいけない資格に、社内でも有名だというお局の先輩。市場が絡むので、興味が持てないの一言では済まされない責任もあった。

 

新人の失敗なんて仕方がない。今だからそう思えるが、当時の自分はそのリスクにがんじがらめになっていて、気づいたら社内でも暗黙の了解となっている、事情があってフルで働けない人(通常のパートさんが多めなのとは別に、精神的な事情を抱える人)が集まると言われている部署へ異動していた。

 

f:id:sans---souci:20200514200308j:plain

 

家では泣いてばかりいた。毎日を死んだように過ごした。部署異動したことに対する絶望というよりも、最初の部署のストレスを引きずっていた。

 

ここからの1年は、私の黒歴史だ。思い出すと今でも心がざわつく。会社が終わった後、親のいる家へ帰るのも辛くて、公園でひとりぼーっと座って数時間過ごしたりした。自分の体が冷えていようが、翌日も早起きだろうが、どうでもよかった。消えてしまいたいと思っていた。

 

その後も色々あったのでそれはまた別で書くとして、最初の挫折だったあの2年間があったからこそ、私は答えが欲しくて自己啓発本を大量に読み、出会うはずのなかった人達とその後の勤め先で仲間になり、語学を勉強し、留学したりした。環境を変えるというのは人づきあいの苦手な自分にとってはいつだって困難なことだったけど、学生時代に恋愛やバイトに甘んじて自分にちゃんと向き合わなかったことのツケを、一気に回収したのが20代だったような気がする。

 

それでも未だに、気を抜くとやっぱり自分が望んだものを選んではいけない感覚に戻ってしまい、「なぜそっちにいく」というものを世間体から選んで疲弊したりする。ツケを返した気でいても、一度ついた心の癖を治すのはけっこう難しい。

 

多分人生って言うのは、自分の本心を見ないで進んでも、そのツケをどこかの段階で払わないと強制停止になるようにできてるんじゃないか。それが人間ってもんなんじゃないかという気がする。机上の勉強だけ何とかこなせばよい20年間を過ごしたツケとして、それに向き合う20年がまた自分にやってくるのは当たり前だという気がしている。

 

f:id:sans---souci:20200514200403j:plain

 

昔の楽しかった思い出、酸っぱかった思い出とともにいろんなことを感じたのでブログを書いてみました。きれいな一本道はもう望めないけど、くねった道にはくねった道なりの歩き方があると信じてこれからも生きていきます。