他人の言動で気になってしまうことって、実は自分が「自分に対して」直したい、ここがダメだと感じている部分なのだそうです。それを心理学用語では「投影」と呼ぶらしい。
心理カウンセラーの・根本裕幸さんのブログに書かれていたことなのですが、過去の苦手だった人との関係で、気づくことがたくさんありました。
働いている時、私自身も最終的にまぎれもなくこうした「ダメ出しばかりする人」になってしまっていたし、思い返せば周りにもこうした人はいました。
その人は、社内でも知らない人はいない(というか、もし知らない人がいても情報がすぐ行き渡るぐらい評判の)いわばお局さん。根っから悪い人ではなかったのですが、彼女と直接関わった人は鈍感ボルテージ=エベレスト級という人以外、つまり、大半の人が泣きながら働いていました。
誰かが「彼女が有休の日、心が軽すぎる…」とつぶやけば、「超わかる、心軽すぎ。」とうなづきながら何人もの同僚たちが集まってくる。そんな感じだったと思います。
私も彼女のことが苦手でした。
でもこれ、もしかしたら心理学でいう「投影」だったんじゃないかと思うようになりました。
今思えば、彼女の言動が本当に耐えがたくなり始めたのと同じ頃、私は自分の仕事自体にも飽きはじめていたと思います。自分の環境や自分自身のことが嫌いになりはじめていた時期でした。
彼女の機嫌が悪いと、「もしかして、私何かした…?」と怖くなってご機嫌をとっていたこともありましたが、彼女の次のような言動で周りの人が次々に潰れていくのを目の当たりにし、次第に許せなくなっていきました。
■朝から突然いらいらし始めてモノに当たる
■自分の気に入らない人には目を一切合わせない、無視する
■仕事を抱え込んで大きなミスをし、相乗効果で機嫌が悪くなる
■「在宅勤務」と言いながら、日中連絡をしても返信がない
■自分が忙しい時期に、休みを取る人がいると陰口を言う
■誰かがお土産やプレゼントをくれても、その場で難癖をつける
「彼女と話すのは気が重いけど、最初だけ我慢すれば途中から普通のテンションになるし、いい所もあるから頑張って仲良くしておこう」という気持ちで最初は接していたのが、いつまでも周りへの感謝がなくいわばダム決壊状態の彼女のことを、「なんなの?この人」としか思えなくなった。周りの人達は優しいからご機嫌を取り続けていたけど、私は次第にそれができなくなっていきました。
「もうどんなに励ましても話を聞いても、彼女は何も変わらないんだ。極力関わらないようにしよう、そうしないと自分を守れない。」と思うようになっていました。
でも、それらがもし「投影」だったとしたら? と、ふと考えたのです。
■イライラしてモノに当たっているのが気になり続ける
=元々、私自身が自分や何かに対して怒りを感じていた
■彼女のイライラの原因を自分が作ったように感じ、媚びる
=私の中にこそ、そういう自分を責める癖が元々ある
■周りが彼女に優しくしすぎることが嫌になる
=私自身が、人に迎合してしまう弱い自分を変えたいと思っている
■休みに対する言動が気になる
=休むことを、実は私が自分に許可していない
■喜怒哀楽を周りに出しすぎることに嫌悪感をもつ
=私が喜怒哀楽を出すことを自分に許可していないから、自由にしている人のことが気に入らない
こういう風に、自分のことを許容しない限り、結局周りに同じような人が現れる(というか、周りの人のそうした言動をピックアップし続ける自分のまま、変わることはない)。
よく、「言われることを気にしてしまうのは図星だから」と言いますが、それも投影の一種なのかもしれません。
もともと、自分の中に存在するものにしか人間は反応することができない。ある人にとっては気に障る言動が、別の人には何てことないってよくあること。
今の自分がフォーカスしているものが、「他人の言動の中で自分がキャッチするもの」ということになるのでしょう。
よく本などで目にする「誰かに憧れる時、自分もそうなれる素質を持っているんだよ」という言葉のも、最初は「なるほど…わからん。」という感じだったけど、それが投影なのだと考えればつながります。
自分にない、自分が知らない「感情」や「素質」には、人は反応することができない。「自分の中に同じような種があるから反応する」という見方なんですね。
他人に対して「この人はここがダメ、もっとこうなれば許せる」と考えている時は、実は他人ではなく自分に対しても嫌な所があったり、自分に厳しすぎるということなのかもしれない。
そう考えていくと、「お局はなぜ私に辛くあたるのか」という自分ではどうしようもないことではなく、「私はなぜ、お局にそこまで嫌悪感を持っているのか」ということにも意識が向きます。
起きることすべてを、他人軸から自分軸に変換しちゃえばいいんですね。
自分の頭で考えていることが、自分の世界として広がっているだけ。自分のフィルターで周りを見て生きているということなのでしょう。
自分を許していない人は、他人がいくらそのつもりなく発した言葉でも「責められている」と受け取るだろうし、自分を許容している人は、他人がこちらを責めるつもりで発した言葉でも「この人は、本当は自分自身がそうすることを許していないんだな」と感じることができる。
結局、言動の理由なんてその人にしか分からないんですよね。別に何の意図もなく、「今日は肩が凝るなー」程度で勝手に機嫌が悪いのかもしれない。
それが自分は気になるのか。気になるのなら、なぜ気になるのか。
その相手が何を考えているかではなく、「自分が」どうなのか? という視点で自分の状態を探るのです。
他人からの言動を受け取るときに、投影のように変身させることがうまくできれば、不用意に傷ついたり責めることもなくなりそうです。
人の言動が気になってしまうときは、自分こそがその内容で自分を責めているのかも? とまず「投影」の可能性を疑い、
■この人は私自身の心の状態を私に教えているんだ
■もっと自分を大事にしよう
■心の状態が分かったから、もうこの人から学ぶものは終わった(=気にしない)
ということをしていけたらいいのかもしれません。
そこでひとつ気づくのが、「精神的に強い」とか「精神的に弱い」というのは、実は自分のことをどれだけ肯定できているかの問題でしかないのでは? ということです。
多分、私がずっと調べているHSPについても、通じる話なのだろうと感じます。
HSPは他人に共感しやすく、相手との境界線があいまいになってしまうことで、相手の問題を自分事のように引きずってしまうことも多い。内向型で自己嫌悪に陥りやすい傾向もあると言います。
「ストレス耐性が弱いため、生きづらい」ということに着目してしまっていたこともあったけど、その前提には「自己肯定感をもともと育みづらい性質」というのがある。
世間で言われがちな「精神的に強いから良い」「弱いからダメだ」という良し悪しよりも、考えるべきは、その人自身がどんなトラウマや性質を持っているか。もともと自分を好きになることにハンデがあるのか、ないのか。実は、そうした多様性の問題でしかないのかもしれません。何かを気にしてしまうから「悪い」、弱いから「悪い」というのは、違うと思う。
最初に話したお局についても、大半の人が彼女について悩んではいたけれど、それをずっと引きずってしまうか割とさっぱりしているかは、人によっても違ったんですね。
引きずらない人は、ただ単に「自分のことを認めていた」ということです。そしてお局の言動の中に、「自分が反応する要素が少なかった」ということ。
イライラしてモノに当たる人を自分がすごく気にしてしまうというのは、
■自分がそういう感情を出すことを自分に許可していないから気になる(自分だって我慢しているのに、不公平)
=自分にもそういう面がある
■自分は絶対そうならないようにしないと
という隠れた感情があるからなのだと思うけど、
■自分もイライラしたらまぁこうなるし、なってもいいや
■私は別にそんな自分も許す
って思えていたら、「なんかガチャってるけど機嫌悪いんかな、この人?」ぐらいでスルーできるのかもしれない。
それどころか、
■お局、さっきトイレでメイクしていたけど、あのリップいいかも。今度買おう!
など、まったく別のことを考えていたりもするものです。
自己嫌悪は、他人の言動に映し出されることもある。自分の中にあるものにしか、人は反応ができない。こう考えていくと、人間関係の悩みも少し冷静に考えられる気がします。