母が化粧品を買いたいというのでデパートに付き合いました。ファンデーションが欲しいという話だったのですが、店員さんとビニール越しに仲良く話してるなと思っていたらいつの間にかパウダーやブラシまで買っていて、特典のサマーサンダルまでもらっていました。お風呂場で使おうとか言ってたけど…
その後も、例の給付金が入ったこともあって欲しいものは割と我慢せずに買っていた気がします。「たまにだしね」と。買う時も「これいい!」と思ったらあまり迷わない。それで「これホントに気に入った~」と何回も言っていて嬉しそう。
同じ家族ながら、自分の喜ばせ方をよく知ってるなと感じました。
私は普段、自分の望みで何かが欲しいというよりも必要に駆られて買うという感覚でした。基本的に「自分なんかが良いものを持つなんて勿体ない」という縛りがいつもあった気がします。
目的(たとえば、何かを飲むとか汚れを落とすとか)が果たせればモノなんて何でもいいと思っていて、それと共に過ぎていく特に変化もない毎日や、何も楽しいと思っていない自分の気持ちも、見てこなかったのかもしれません。
自分が本当に欲しいものを買うとか、手間をかけることって、もちろん自分が置かれた状況や他に優先しなければいけないことがあるかどうかにもよるけど、自分を認めていないと出来ないことでもあります。
私は、今まで全然、自分の頑張りを認めてきませんでした。当たり前のことなんて、本当は何もないのに。
頑張っていた自分の後ろ姿を想像すると、どの時期の自分も、泣いているような気がしました。頑張ったからできるようになったことも沢山あったのに、それを全部無いことにしてきました。
でも自分がいくら無かったことにしても、残念ながら今まで頑張ってきたことは何もなくならないし、一緒に過ごした誰かの中からもその印象はなくなりません。
人からもらう言葉も、誰かが自分を頼ってくることも、何も言わずに見守ってくれていることだって、「気づいて気づいて、あなたが頑張ってきたことがちゃんとあるからだよ」って言われているのかもしれない。
やってきたことが何一つ価値がないように思えて、自分は何も受け取る資格なんてないんだと思ったとしても、道を逸れようが、どれだけ寝込もうが、頑張ってきたことというのは無くなりません。
頑張ってきたのを何も無かったことにするなんて、他人にもしませんよね。自分の家族や友達の頑張りは当たり前のように認めるのに、自分だけ無かったことにするなんて虐待です。
こういう自分だからこそできたことがあって、辛い時も耐えてくれて、身体もついてきてくれたってこと。感謝してもいいぐらいなんです、本当は。
「自分虐めもほどほどに」ってよく聞くけど、本当にこういう言葉が必要な時には、それが届きづらかったりするように感じます。虐めをしていることに、気づいてすらいないからです。
私の場合、あんたなんて消えてしまえ、と毎日のように自分に言っていた時期がありました。
どうせ生きていても、どんなに頑張ったって、私には何も待ってないんだからね。何度も何度も言ってるのに、なんで分からないの?学習しなさいよ、いつまで経っても馬鹿なんだから。馬鹿だから頑張り続けるのは当たり前なんだよ、理解できた?って、ずっと言っていました。
母の買い物に付き合ってから、なぜか夜中にそれを思い出し、堰を切ったように泣きました。あんなに自分を虐める必要がどこにあったんだろうって思いました。
今まで自分を嫌悪して泣くことはあっても、なぜあんなに酷いことをしてたんだろう、普通に毎日頑張って生きていただけなのにと思いながら泣くことはなくて。
だんだん、怒りも感じるようになりました。新しい仕事も覚えながら、古い仕事を掛け持ちで、残業の後は夜中まで試験勉強。人間関係にも耐えて気遣いながら、それでも成長したいっていう思いを持ってただ頑張っていただけの自分に、なぜそんなことが言えたのか。
多分、当時「自分虐めもほどほどに」なんて目にしても、当たり前のことをやっている感覚しかなかったのでスルーしていたと思います。
自分にとって辛かったこと、簡単じゃなかったことを、全部無かったことにして「頑張るのは当たり前なんだよ」なんて、パワハラと同じ。友達に対してできないことを、自分にしちゃいけないんです。
頑張ってきたことは絶対に消えないし、頑張らなくてもただ生きているだけで、美味しいご飯を食べていいものを使って、笑顔でいてもいいんです。もし今、頑張っている自分のことをそんな風に責めている人がいたら、その人にも心から伝えたいと思う。頑張れることは、当たり前じゃない。たくさん褒めてあげて、好きなことも沢山自分にさせてあげて、と。