仕事と心のDiary

デトックスのための文章

いつか人は、自分のいる場所を忘れてしまうのだろうか。

北の部屋で仕事をすることが最近多い。南西の部屋で仕事していた時もあったけど、南西は窓を開けていても午後にむわんとした熱気を帯びる。そしてテレビがあり、ソファもあり、キッチンが近い。つまり、誘惑が多い。

 

北の部屋は窓を開けるとひんやりと涼しい風が入ってきて、7月だというのに長袖でも過ごせてしまう。静けさも、南西に比べれば優っている。昔は北の部屋は寒くて暗くて嫌だと思っていたけど、夏になると家の中の、ささやかな避暑地になる。昔は自分の部屋が北にあったから、よくベランダから下校する学生達を眺めていた。景色の中に並木道があり、春には桜、夏には青々と茂る木々を眺めることができた。

 

北の部屋は静かな部屋だけど、玄関が近いからたまに人の気配が感じられる。マンションの隣の家は去年旦那さんが亡くなったそうで、自分の母親ぐらいの年齢の女性が一人で暮らしている。こういう状況になると、「ひとりで大丈夫かな」と、周りは気にするものだ。

 

ある日、隣の家に誰かが訪ねてきた。二階上に住んでいる、私の昔の同級生のお母さんのようだった。同じように去年、旦那さんが亡くなったと聞いたことがあった。おそらく同じ状況だった二人には、話すことがたくさんあるみたいだった。あの時はこうしていた、こういう場合はこうしていた、というような話をしばらく続けた後、また連絡取りあいましょうね、とにかく元気で、と言って別れていた。

 

二人の会話を後にパソコンをカチカチと叩いていたら、今度は外から、「今朝から、身長160センチ程度、グレーの帽子をかぶった80代の男性の行方がわかりません」と、地域放送が流れてくる。それを聞くと、そのおじいさんは今、どこで何をしているんだろうと想像してしまう。

 

いつか人は自分がどこにいるのかも分からなくなり、誰かが自分のことを探していることにも気づかなくなるのだろうか。何気なくどこかの公園のベンチに座り、買ったパンを食べながら、ただ日向ぼっこしていたらいい。そして暗くなったら帰ることを、忘れないでほしい。待っている人のことを、思い出してほしい。

 

結局、北の部屋は静かだけど、テレビの作り出された音が無い分、人の生活が浮かび上がってくる。その静かな現実の中で、私はこの命を使って今、このパソコンに向かってなぜこのデータを作っているんだったっけ、と考えたりする。夏の涼しい風も、時間の流れの中で失ったものを持つ人達の存在を思うと肌寒くなる。

 

仕事が終わると、南西の部屋に戻る。テレビからは「こんなに量が多いのに、この値段!?」というお笑い芸人の賑やかな声が流れてきて、キッチンからはジューーー、と、何かを炒める熱い音がする。干してあった洗濯物は生ぬるくも乾いていて、午後に陽を浴びて元気になったパキラが気持ちよさそうに葉を広げている。

 

ひとつの家の中で、世界は簡単に変わってしまう。明日北の部屋で、私はどんな生と死を感じるのだろうか。