仕事と心のDiary

デトックスのための文章

生きづらさはテーマだったけれど

自分的に、今日は何となく「占いデー」だった。占いに力を借りた日というのが正しいかもしれない。

 

この記事に書いたようなことが頭の中にあって、違和感や緊張と連鎖するように「そういえば」と算命学のことを思い出し、今日は関連するブログを読んだりした。

 

あまりに内側に入り込むような思考をしてばかりだと自意識過剰な中二病みたいだし、発散させることや自分でも貢献できることを外側に見つけて少しでも人のためになるべきで、大人とはそうあるべきだとも思う。でも、その「べき」を優先させる時、なぜか心に日々絶え間なく蓄積されていく孤独と、そこに属する感情の数々を、どう扱っていいのかわからなくなってしまうことがある。

 

そんなことは誰にでもある。難しいこと考えなきゃいいじゃない。TVでも観て、一晩寝たらそれでよし。考えられるって幸せで、暇ってこと。考え方が甘いだけ。

 

これは常日頃、自分が自分に言い続けてきたことだが、それらの考え方の根本はやっぱり自分には分からないままだった。気にしないということができず、ただ「病まないように」自分を客観視する。そんな最低限のラインで一日を終えたことも多い。

 

算命学の話に戻ると、世の中には「宿命二中殺」や「害」と呼ばれる宿命を持った人がいるそうで、自分も紛れもなくその一人なのだと知った。最初にそれを知った時は、「一体どなたが編み出してくれた? このような何か怖いのを…」と思ったのだが、それが今日の自分には、HSPを初めて知った時と同じ安心感を与えてくれた。

 

中殺、害、どちらも怖いネーミングだ。二中殺というのは社会や目上との折り合いが付けづらく、悩む分だけ精神的なことに意識が向きやすい。害というのは、不登校心療内科のお世話になるような人の多くが持ち合わせている相らしい。

 

言葉にするとなかなかに「え?」って感じだが、自分の感想は「ま、それなら仕方ないか」だった。拠り所は占いでもHSPでも、何でも良い。同じものを持って生きている世の中の誰かが、「それでも私は私でいていい。いつまでも苦しくて大丈夫。だから、常識に固執せず枠のない所で生きよう」と言っているのを見ると、やっぱり安心する。

 

なぜ周りの人が出来ていること、気にならないこと、楽しいはずのことが、自分にはままならないのか。それは、周りの人が努力しているから。だから浮かないように観察して、なるべく周りの人と同じ言動をしよう。そう思ってきたのだが、そんな生き方をして何になるのだろう。何のための、このせっかく生きている時間、もう戻ってこない過ぎゆく一秒なのだろうと思うことがある。

 

きっとどんなに世間的に良いと言われる環境や人に巡り会えたとしても、自分は少なからずこの感覚を持ちながら生きていくはずだ。だから少しずつ、無理に違う何かになろうとすることを諦めていきたいと思う。占いも気質も、辛さを和らげてくれる味方として活用できれば御の字だ。