仕事と心のDiary

夜になったら色んなものを脱ぎ捨てよう。

別れは軽いぐらいがちょうどいい。

なるべく軽やかに描かれる「別れ」が好きだ。綺麗過ぎるわけでもシリアス過ぎるわけでもなく、ただその後もお互い生きていくんだと感じられるような別れ。

 

たとえば『愛の不時着』では、身を引き裂かれるような辛い別れも、命がけで誰かを救うシーンでも、登場人物のセリフや表情にどことなくユーモアがあり、不思議と軽快さが感じられた。

 

ベートーヴェンソナタの中には、『告別』というのがある。これは気難しい彼が唯一と言っていいほど親しくしていたパトロンと戦争で別れた際の曲。導入部の悲しみ以上に伝わってきたのは、パトロンを称えるような躍動感と優雅さだった。

 

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ショパンの『別れの曲』も、悲しみよりはそれも含めた上での圧倒的な穏やかさに包まれている。彼らの時代は今よりも避けられない別れが遥かに多かったはずで、それをどう昇華していたかが伝わってくる気がする。一緒にいられない事実より、一緒にいた時間が曲を明るくした。

 

誰かとの別れの時、一緒に悲しんで泣くのもまた良いものだけど、「元気でね!」って肩をポンとされたり、色紙に書かれた「良い人生を」という一言が驚くほど気持ちを軽くさせてくれた。

 

在宅の人が増え始めた時期に、CDTVMISIAが『さよならも言わないままで』という曲を歌った時、その歌詞が今の世の中に向けてとても真摯だったために、感動的な曲ながら聴いているのが辛くなってしまった。

 

別れはどうしたって悲しく辛いものだからこそ、その重みを知る人達が描くフランクで温かい「またね」に助けられてきたのかもしれない。敢えて軽く交わす別れの挨拶も、いいものだと思う。

大事だと思っていたものを全部捨ててしまった話。

暗すぎる話でもおめでたい話でもなく、ただただ、自分は空っぽになったと思うことがある。

 

今年は全部、捨ててしまった。7年続けた仕事も、6年住んだあの大好きだったアパートも、気乗りがしない付き合いも、勉強も。可愛いけど足に合わないヒールの靴も履かなくなったし、何となくずっと使い続けていたマグカップやコートも捨て、辛い時に笑うことを止めた。

 

無理して維持するのをやめたら、まったく生産性のない自分になった。ゼロに近い状態から、誰かの目線を抜きにして自分でまた選んでいくのは結構苦しい。変わるというのは簡単じゃないんだと思った。

 

そして、今まで何の疑いもなく常識だと流していた色んなことが信じられなくなってしまった。企業が「副業禁止」などと人々を普通に縛れていたことも、週5日・1日8時間以上という勤務時間がモデルケースになっていたことも。幸せに違いないと思っていた素敵な俳優達が、この世からいなくなってしまったことも。

 

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大事だと思っていたことが全然大事じゃなかったと、気づくことが増えた。生きることに息切れした時は、何か特別なことができなくても、とりあえず息をする。最低限のことをして、靄の中でただ存在するように時間を繋ぐ。そんな時期があってもいいんじゃないかと思う。人生は長距離走だということが見えてきた。

  

いつも不安や怖れから自分を走らせてきた。この繰り返しをもう止めたかったから、私は大事だと思ってきたものを捨てた。焦りから行動するのではなくて、「したい」と自然に思えるまで待ちたいと思う。

 

人がやっているから自分も、というのは疲れてしまった。目線が変わって、極端な話生きてさえいればいいと思うようにもなった。鎧に潰されそうならそんなもの捨てて、何もない自分に戻ればいい。元々、授かった命だ。やりたいことが見つからなくても、効率が悪くても、誰もが平等に寿命までをまっとうする。本来そういう、シンプルな話なんだと思う。

 

色んな物を手放したから、何も出来ない駄目な自分を捨てずに済んだ。自分のサイズでいい。

「少数派」で生きることを否定してほしくない。

「ちゃんとしたことを書かなければ」と思うと、書けなくなるものだなと感じていた。でもブログっていうのは何か別に良いことを書けなくても、今の気持ちを記すだけで、知らない所で誰かの何かしらになっていくのかもしれない。私がそれで気づきを貰ってきたように。生きることそのものが、作品になるのかもしれない。

 

大きな賞を取らなくても、自ら出版社や企業に自分を売り込まなくても、自分でインターネットを通じて作品を発表できるようになった。創作や芸術というのは、有名なアーティストや「先生」と呼ばれる階層の人達だけの特権ではなくなった。

 

生きているだけで、誰もが自分を作品にできる時代。そう考えれば、人と違っていることはそれ自体がレアな絵の具を与えられているようなものだ。この社会でマイノリティであればあるほど、誰も手の届かない作品になる。そんな風に選ばれた人達の存在がある。

 

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だから自分のマイノリティな部分を憎んで、隠して、まるで無かったことみたいにしてしまうのは悲しい。そもそもマイノリティなんて呼び方自体が無くなるべきだと思うけど、今ここで言うそれは社会の一般的なルールや世論に合わないような自分の気質・趣向など、アイデンティティに関する全般のこと。

 

「みんな一緒に同じように」というのは、その方が都合がいい誰かの存在があるから。最近では議員のLGBT差別発言があったけど、78年も生きていて蓄えたのがあんなお粗末な思考だと思うと、これからの時代に生きることの可能性や恩恵を深く感じる。

 

「10人に1人」や「5人に1人」と付くような性質を持つというのは、苦労を背負う分だけ、より多くの真実を見る目を与えられているようなものだと思う。それを使って自分にしか見えないものを極めていけば、世の中は素敵な作品ばかりになる。

月を買うことは、本当に「ロマン」なのだろうか。

「月があんなに美しいのは、誰のものでもないからさ」というローランドの言葉があったけど、月は既に、世界100万人以上の所有物になってしまっている。

 

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「月に所有者はいるのか?」と疑問を抱いたアメリカ人のデニス・ホープという実業家が、自国で所有権を申請し、利害関係国や機関からの反対も特になかったためにその権利を得た。彼はその後ルナ・エンバシーという会社を設立し、地球圏外不動産業として月の土地販売を始めたのだそう。

 

月は「地球から見えている表面範囲のみ」が地球での販売権の対象となっていて、1,200坪ごとに日本円にして2,700円で売られている。

 

ルナ・エンバシー社は『月憲法』というのを発行していて、それによると自分が購入した月の範囲を更に分割して他の人に販売してもいいらしい。ただし、営利目的はNGのよう。

 

これは個人の感覚でしかないが、私も結構、ローランドと同じことを思う。それがホストクラブの口説き文句でも。確かに、宇宙というのは人類が研究を重ねて少しずつ到達する対象であり、そこには利害関係やビジネスが絡むのかもしれない。その所有も、宇宙に行けない人にとっては「架空のロマン」になりうるのかもしれない。

 

だけど月には、権利とか、切り売りとか、お金とか、そういうものを何となく重ねたくないと思う。手が届かないのなら、人の欲とも無縁でいてほしい。所有の権利書などなくても、人生を終えるまで毎晩眺めてその美しさを享受できれば、それで十分幸せだ。

 

【参考サイトURL】

月の土地|ルナエンバシージャパン

月の土地の所有者は全世界で100万人以上 - 宇宙ビジネスジャーナル

ほっとする感覚。

携帯を見て人から連絡が来ていない時、本当はもっと寂しいと思った方がいいのかもしれないけど、いつもどこか、ほっとしてしまう自分がいる。

 

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「人と一緒じゃないと寂しい」という人を見ると、純粋に可愛いと感じた。繋がることが好きな人はどこかキラキラしていて、温かみがある気もした。そういう風になりたい、ならなければいけないと思っていたこともあった。

 

頭ではそう思いながら、心ではいつも、繋がりの途切れたその一瞬に安堵していた。メッセージをラリーしつついつの間にか眠ってしまえるような「私」に憧れながら、本心では映画や本に囲まれて静かに明かりを消す夜に、幸せを感じていた。

 

私は、私が思っていた可愛い人にはなれない。だけど、それでいいのかもしれない。

他人目線で生きるのを終わりにするために。

自分に向き合うことについて、世の中には「そんなことしても何も変わらない」「意味がないよ」という意見もあったりしますが、その後の行動に少なからず影響していくものなので、個人的にはとても大切なことだと思っています。

 

自分を知るというのは周りを無視して独りよがりになるということではないし、周りと心地いい関係を作っていけるように、客観的に自分を捉えるきっかけにもなるんじゃないかと思うんです。

 

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少し前にTwitterで「生きづらさ」というワードがトレンド入りしたようですが、自分自身もコロナという以前に、社会に出てからそれを感じてきました。中でも一番大きかったのが、このブログでも度々書いている、仕事との付き合い方についてでした。

 

まだ色々と試している毎日ですが、考え方の癖を変えたいと思い続けてきた私が、それまでの経緯を含め、ここ半年でやってきたことを備忘録代わりに書いておきたいと思います。

 

 

 

何かと安定しなかった過去の12年間

元来気にしやすい性格だったこともあり、仕事そのものというより環境に慣れることにいつも必死で、他のことをうまく楽しめない時期を長く過ごしました。特に20代の頃は、周りのように「仕事が落ち着いてきて、他のことを楽しむ」という段階になかなか移ることができず、いつも職場のことで頭が一杯になってしまう自分が情けなくて、メンタルも不安定でした。

 

周りにはそれを隠したかったので、外では無理に笑ったりしていて、突然体調を崩してびっくりされてしまったこともありました。当時はHSPのことも知らなかったので、ただただ「周りのように強くなれないのは駄目だ」と思っていて、苦手なことに敢えて飛び込むようなこともしていました。

 

そうした生活を続けるうちに目標が見えなくなり、「やりきった感」のようなものが出てきてしまい。頑張っている割にいつまでも辛いし、お局のことを考えないようにすることができない。表面上何も問題がないようにふるまっているので周りから見える自分と本当の自分が乖離していて、八方塞がりみたいになってしまったんですよね。

 

自分を責める癖って侮れないもので、何をしていても「そんなことやっていいの?」「何言ってるの?」と、もう一人の自分が常に言ってきます。これが続くと本当に、抜け出したくても抜けられない沼みたいなものです。

 

ただ、そんな中にも冷静な自分がまだ残っていたのがせめてもの救いで、「このままではいつか駄目になる」ということは頭では分かっていました。物事の良い面を見る気力がなくなっていたし、自分のことも本当に嫌いで、不謹慎な表現ですが、ちゃんと生きていくためにどこかで変わらないといけないと感じていました。

 

何もせず、突然考え方が変わることはないのだと思った

私には同じような時期を過ごし、不倫や占いなどから抜け出せなくなった経験を持っている友人がいるのですが、3年ほど前に留学を経験してから、変化が目に見えるようになりました。

 

それまでは愚痴が本当に凄かったし、(疲れていた私が言うのもなんだけど)いつも疲れていて。でも海外生活を経験し、仕事にも人にもいい意味であまり執着しないようになり、帰国後に「あの頃は色々とごめんね」と謝られて。彼女の変わるタイミングはこの時だったんだな、と感じました。

 

自分を楽にさせる考え方が自然に出来ていればいいのですが、そうでない場合はそのままにしておいてある日突然変化できるということはないので、もう少し色んな生き方を知って、どこかで仕切りなおす必要があると自分自身にも感じていました。

 

意識を変えるために、やってみたこと

①やりたくないことを、一旦すべてやめた

それまでは人の顔色や、とにかく周りとうまくやること、褒められることを優先していて、色々引き受けたり、気の乗らない集まりにも顔を出していたのですが、仕事を辞め、まず自分のことを優先するようにしてしまいました。

 

最初は「もういいや」と、諦めることから始めました。人に連絡が返せなくても、もういいや。ご飯が入らなくても、もういいや。寝ていることしかできなくても、もういいや。と、あらゆることを諦めまくりました。とにかく何もかもが面倒で、燃え尽きの状態でした。

 

働いている時、並行して語学や財務の資格の勉強をよくやっていて、仕事を辞めてもそれは続けると思っていたのが、自然に任せたら参考書に全く手を付けない自分がいました。やりたい勉強だと思っていたけど、そこに逃げていただけなのかもしれないと初めて気づきました。

 

②自分の興味を知り、固定観念が本当にマストなのかを検証した

少し回復してきた頃、「自然に任せたら自分は何をするんだろう」というのが知りたかったので、家事など以外気が向くことだけをするようにしたら、精神科医HSPの方のブログ、「頑張らなくてもいい」というのを教えてくれる本、心理学や起業家の方の動画などを一日中、飽きずに観ている自分がいました。

 

人の考えは人のものでしかないのですが、それ以前に世の中の人の考え方や生き方を知るのがこんなに楽しいことなんだと感じて、良いものは人にも伝えたいと思いました。危機感がスタートだったのは確かだけど、こんなにずっとやってしまうぐらい、面白いことなんだと気づきました。

 

その頃、心理学の「投影」という現象を知りました。相手の言動に心が動くのは、自分の中にもその要素があるから。自分が自分に許可していないことだからこそ、他人がやると苛々する。他人はそんなつもりで言っていないのに、自分が責められているように感じて反応してしまう。そういうすべてに「投影」が関係しているのだと知りました。

 

そして、自分がそれまでずっと重視してきたことも振り返りました。

 

📓世間から見て「優等生」であること。

📓自分よりまず、人に嫌な思いをさせないこと。

📓周りから、充実した人生を送っているように見られること。(見栄)

📓親を幸せにすること。自慢させてあげられるよう生きること。

 

📓お金を稼ぐには、辛い思いをしなければいけない。(お給料は、我慢料)

📓周りが出来ることは、自分も出来なければいけない。

📓やりたいことは、まずやるべきことをやってからでないといけない。

📓人になるべく迷惑をかけてはいけない。

 

普段から心理学などに興味を持たれている方には一目で分かってしまう思うのですが、これらはすべて「他人軸」の固定観念です。それらについて、色々な方の本やブログの力を借りながら、「本当にそうなの?」と検証してみることにしました。自分とは反対の価値観で楽しそうに生きている人を、時間をかけて探しました。

 

📖世間から見て「優等生」であること。

📖周りから、充実した人生を送っているように見られること。(見栄)

➡一時は「すごいね」と言われるかもしれないけど、それを維持するために、降りられないレールを無理に走り続けていない?

褒めてくれた人が、その後もずっと人生の責任を取ってくれるわけではないし、誰もが自分の人生に精一杯で、人のことなんて実際はそこまで見ていない

 

📖自分よりまず、人に嫌な思いをさせないこと。

➡でも、その後で必ず自分の感情の面倒を見ることになる。ずっと付き合っていくのは自分なのに、それでいいのだろうか?

そして自分を犠牲にしていると、逆に周りに気を遣わせることにもなる。

 

📖親を幸せにすること。自慢させてあげられるよう生きること。

➡もう自分は大人であり、インナーチャイルド(潜在意識にある「子供の自分」)は自分で癒す道もある。そもそも生まれること自体に、選択権があるわけでもない。

親の期待はあくまで親自身のもので、背負わなくてもいい。「返してあげたい」と感じた時だけで十分。まず自分の幸せを感じられるようになること。

 

📖お金を稼ぐには、辛い思いをしなければいけない。(お給料は、我慢料!)

➡そうとは限らない。辛いのなら、自分に合わせた場所に移る道もある。

働くことが苦しい人ばかりじゃないんだと知ること

 

📖周りが出来ることは、自分も出来なければいけない。

➡でも、それがずっと出来ないできた事実があるはず。そもそも生きてきた環境が違うのに、出来ることが人とまったく一緒というのは無い。出来ない代わりに、出来ることがある。自分が授かったものを大切にすること

 

📖やりたいことは、まずやるべきことをやってからでないといけない。

➡現に、やりたいことからやってみたからこそ前進できることも多い。やるべきことばかり先にやっていたら、いつまでも楽しい時間が訪れない。時間には限りがあるから、大人になってからは自分が後悔しない方を選ぶこと。

 

📖人になるべく迷惑をかけてはいけない。

➡心掛けはいいことだけど、完全に迷惑をかけないのは不可能なこと。人には駄目な時もいい時もあるはずなので、駄目な時は人に助けてもらいながら、いい時はたくさんお返しすればいい。分かってくれる人がいた分、自分も人のことを理解してあげること。

 

こうやって一つひとつ考えてみた時、本当は何も、最初から決まっていることなんてないんだと思うようになりました。「〇〇でなければいけない」というのは、結局自分の頭が決めているものに過ぎない。だとしたら、人の数だけルールがある。しいていえば、それを束ねるために法律が存在しているだけ。

 

人が喜んでくれるのは本当に嬉しいし、そこから幸せをもらうことができます。でも、それが愛情ではなく恐れからの行動だと、一時的な安堵にはなっても、純粋な喜びや充実には繋がりづらい。まず、土台は自分自身なのだと思います。

 

③他人軸から自分軸へ移るために

その土台がないままに他人軸を重視しすぎると、こういうことになるのだというのを身をもって知りました。

 

😢自分が何を楽しいと思うのかが分からない

😢何が嫌なのか分からない

😢周りとうまくやれないと焦り、自分を責める

😢頑張っているのに空回りしてしまう

😢苦手な人から好かれる

 

こういう状態になった時にまず大事だと思ったのは、こんなことでした。

 

🎁今までの自分の「後ろ姿」を想像して、寄り添う・感謝する

(例:泣いている/拗ねている/苛々している など。インナーチャイルドを癒す感覚に近い)

 

🎁自分がそういう経験をしたからこそ、得られたギフトに目を向ける

(例:人の痛みが分かるようになった/規範を大事にできる基礎ができた/人に伝えられる経験が増えた/変わるきっかけになった など)

 

私は休み始めて4か月ほど経った頃にこれができるようになり、「もしかして、今まで自分に何かとんでもなく酷いことをしてきたんじゃないか…」と初めて感じるようになりました。生きてきて、初めてです^^;

 

「酷いこと」というのは、こういうことでした。

 

💣頑張り続けるのは当たり前だと思う

💣精一杯やっているのに、それを「自分だから」と無かったことにする

💣「自分なんて価値がない」と毎晩言い聞かせる

 

これに気づいた時に、自分があるべき場所に戻ってきたような感覚を何となく持つことができました。寝ていることしかできない状態から自分の痛みを知るまでに、私の場合は4か月必要だったということです。

 

昔、先輩に「お前には、”根拠のない自信”っていうのが全然ない。どんな奴でもある程度持ってるものなのに」と言われたことがあったのですが、「何それおいしいの?」って感じでした。反抗期というのが特に無く、大学では周りと比較して自分が劣等生だと感じてきたので、そうした学生時代も影響しているのかもしれないなと思います。

 

自信もバックグラウンドによって人それぞれだと感じるし、最初から「俺サマが!」みたいな自信もあれば、うまく波に乗れないこともあります。でも途中からでも、自分なりに自己肯定感を積み上げていくことは出来るのだと思います。

 

他人軸から自分軸へ少しずつ戻すために、この自己肯定感というのは必要なものですが、それには「過去の自分への感謝と、やってきたことから得た恩恵に目を向ける」というのが避けて通れない道のように思います。

 

④得たものに焦点を当てて、自分を苦しめる固定観念を手放す

生きるというのは何かを抱えていくことだと思うのですが、それが増えすぎると、歩いてきた道が荷物で見えなくなります。でも増えてきた経験に感謝したら、荷物を手放せることもあります。

 

荷物というのは、固定観念のようなものです。それがあったからこそ経験した世界というのが一人ひとりにあるはずで、私の場合はこうした出来事がありました。

 

💠うまくやりたいのに、精神的ダメージに勝てない日々

💠仕事をする上での、人間関係(お局など)のつまづき

💠恋愛が長続きしない

💠営業職に飛び込む

💠第二新卒

💠倒産

💠資格の勉強に追われる

💠留学を決めるまでの、”レールを外れる”的な恐怖感

 

でも、だからこそこんな気づきもありました。

 

💎当たり前だと設定していたハードルが(自分には)高すぎたんじゃないか

💎自分の考え方の癖を知るために、心の勉強がしたい

💎レールを外れた分だけ、人に伝えられることが増える

💎仕事だけが頑張る対象ではない

 

当時は苦しいこともあり、「あの頃もっと自分を大切にして、楽しみの方にエネルギーを注げていたら」と考えることもよくあるのですが、そういう遅れもすべて、自分のタイミングなのだと考えるようにしました。

 

今はそんな風に色々経験してきてくれた自分を認めようと決めています。そして少しづつでも荷物を下ろしていき、仕事だけではなく女性としても楽しめる生活にしていくことがこれからの目標です。

 

実際の性別とはまた別に、人間の中には「女性性」「男性性」というものがあり、そのバランスも大事なようなので、そういうこともこれから調べたいと思っています。

 

これからも続けたい、「自分の内側を忘れない」ということ

固定観念は気づかないうちに自分の絶対ルールになってしまっていて、その存在に気づくこと自体、難しかったりします。出来ない自分を責める原因にもなるのだと思いました。

 

自己嫌悪が積み重なると自分を許せず、辛さにもむやみに耐えてしまったりすることが多いのですが、そんな時は「〇〇でなければいけない」→「できない自分は駄目」→「自分なんて嫌」という固定観念のループになっていたりすることが分かったので、「本当にそうじゃなきゃいけないの?」「そう思ってるの、自分だけだったりしない?」と、疑うこともしていきたいと思っています。

 

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周りとうまくやっていくことも大切なのですが、まずは自分が楽な考え方をしていけることが一番だなと感じます。私自身もまだまだ道の途中ですが、増えた荷物は時々下ろして、心の内側を覗いてみるのも発見があるものだと思っています。

誘いを本音で断るとすっきりする。

気の乗らない誘いがあって、それを「忙しいから」とか「家の都合で」とか嘘をつかず、「事情で、楽しく飲める気分じゃないから」と言って断ってしまった。

 

色々言われたけど、一度断ったから、もういいよね。

 

行きたくないと思いながら相手に会うのが一番失礼だし誠意がない。

 

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断る時に本音を言うのも、時にはありなのかもしれません。そこで相手との関係も見える気がします。「色々あって、どうしても気が乗らない。ごめんね」と話した時に、どう反応が返ってくるのか、とか。

 

断った時に何か言われたりするのは、自分にも問題があるのかもしれません。今まで相手に合わせすぎていたとか、気を遣い過ぎていたとかで、「誘いに応じるのは当然だよね」というのがベースになっている気がして。

 

今までは変に理由をつけたり、気にして何度も詫びたりしていたけど、「断る」ってことを軽やかに、なるべく本音で出来るようになれたらいいですね。その方がすっきりする。