仕事と心のDiary

デトックスのための文章

「生きてはいけるから大丈夫」といえる生き方

「そうしないと世の中でやっていけないぞ」と脅すばかりで、「失敗しても生きてはいけるから大丈夫だよ」と言ってくれるような大人は、私の周りにはひとりもいませんでした。

『なるべく働きたくない人のためのお金の話』(大原扁理 著)より引用

 

「なるべく働きたくない人」である私は、”なるべく働いていない人”の本を読むことがよくあるのだが、25歳という若さで年収90万の生活を始めたという大原扁理さんの本を最近読み始めた。

 

初めて大原さんの本を知ったのは、5年前にひとり旅をした時だった。『箱根本箱』という、”本に囲まれて「暮らす」ように滞在”というのがコンセプトの宿に泊まったのだが、ロビーが図書館のようになっていて、施設内の至る所に少しずつ本が置かれていた。大原さんの本は確か、「低収入で豊かに暮らす」「生活を楽しむ」といったテーマの本が並んでいるスペースで見つけた記憶だ。その時にパラパラとめくったのは、『年収90万円で東京ハッピーライフ』だった。当時何気なく手にしたその本のテーマを、5年後の自分がまた違った気持ちで読み進めているというのが何だか不思議な気分だ。(ちなみに、この宿は本が多く楽しいのだが、露天風呂がとてもぬるいので冬の滞在はあまりお勧めしない。)

 

大原さんがその生活を始めた20代半ばというのは大抵、お金でも経験でも何かを増やすことの方に夢中な時期で、そぎ落とす方に邁進するというのは珍しい気がする。自分に合ったものを選ぶことが世の中の少数派になってしまう場合、それを追求することは、周りに合わせて生きるよりも難しいことだ。

 

大原さんは本書の中で、自身が年収90万(週休5日、週末のみ介護の仕事をする生活)で一時期生活していたことを”隠居”と表現しているのだが、最初から隠居を目指していたのではなく、あくまで自分に合った生活を追求するうちに、そのスタイルになっていたのだという。そして、その”隠居”に至った背景のひとつとして、冒頭の内容を挙げている。

 

「失敗しても、大丈夫だよ」と人から言われたことがなかったから、失敗しても大丈夫だということを知るために、自分で経験するしかなかったのだと『なるべく働きたくない人のためのお金の話』には書かれていた。

 

話は変わるのだが、私は最近、テレビが観られなくなった。故障したわけではなく、好きな番組や芸能人もいる。けれどYouTubeなどで「自分が好きなコンテンツだけを取りに行く」ことに慣れてしまうと、顔も名前も知らないテレビ局の人が作った番組をただ「与えられる」ことに、何となく苦痛を感じてしまうようになったからだ。

 

また、理由はもう一つある。テレビは多数派に焦点をあてたテーマがどうしても多くなるので、自分でも気づかないうちに世間と自分を比較し、本来必要がないのに謎に傷ついたりしていることに気づいてしまったからだ。

 

もちろん楽しい番組もあるが、中には性別や年齢別のモデルケースのような話もいまだに結構あったりする。それをただ受け身に観ていると、そこに当てはまらない自分が失敗作のように思えて、その回数を重ねることで何においても「失敗すること」がとにかく怖くなってくる。

 

私は昔から雑誌がとても好きで、色んな雑誌を読みながら育った方だが、今は結構あなどれない不安製造機だと思っている。

 

たとえば、「ほっておくとシミになりますよ」という見出しは美白クリームを売りたい企業のためのもので、「◯歳◯◯職OLの資産形成事例」という記事は資産形成アドバイザーが受注するための企画。「お肌のお悩み別!この冬、これが売れている」なら、この冬に新商品を開発し、より多くのお金やメリットを出版社に与えたメーカーが掲載していることが大半なのではと思う。

 

そんな情報の中にいると、純粋にそれが欲しいというよりも「不安だから」「失敗したくないから」手に入れるという方向に行きやすく、世間に合わせることが自分の中で至上命題のようになってしまい、その執着がまるで納豆みたいにネバネバと糸を引いて、その日に浸かった湯船に疲れとともに溶け出すだけでは飽き足らず、夢の中にまで登場する。

 

不安になることが簡単な日常の中で、大原さんのように自分で実際に経験したことをもとに「失敗しても大丈夫だよ」と言える側になるというのは、憧れる生き方だ。失敗しまいと生きるより、たくさん自分で試してみた大人がおじいちゃん、おばあちゃんになり、若い人にその経験を聞かせてあげられたとしたら。または誰かをひとりでも励ますことができたら、もうそれだけで、意味があるんじゃないか。人の生き方は決して自分だけのものではなく、周囲の人がそれを見て何かを感じ、繫がっていくものなのだと思う。

 

90万円。このラインを知った時、大原さんはきっとホッとしたんだろうなと想像してしまった。かつて「そうしないと世の中でやっていけないぞ」と彼に言った大人もただ、「そうしなかった」経験がなかっただけなのかもしれない。

呼吸を整える「瞑想」のすすめ

今月は、今年の目標について夜眠る前に日々考えてきた。多分、普通は年が明ける前に今年はあれやろう、これやろうと計画を立てるものだと思うが、いつも「目標を持とう」と思ううちに日々のことに追われて年末が過ぎ、1月が過ぎ、そのまま年末を迎えるのが常だ。だから今年は目標を立て、月ごとに振り返ることを決めた。

 

 

サウナはないけれど、「ととのい」がある日々を目指して

先日も自宅から場所を変え、新たな気持ちで丸1日とって真剣に目標を考えてみたのだが、食事をしながらまず思い浮かんだのは「ご飯を食べられる自分でいること」だった。

 

これっておそらく普通は最低限な内容だと思うのだが、これを思いついた日が土曜日だったこともあり、明日も休みだという安心感からきちんとした量の食事を摂れていると気づき、この目標が生まれた。気持ちの安定は食欲と直結し、食べる物が体を巡って気持ちの安定を作る。

 

何をするにも、心が先。最近ひすいこたろうさん(『あした死ぬかもよ?』の著者で、瞑想や『名言セラピー』という動画配信をされている)の作品を目にする機会があり、その中でこの言葉を目にした時、目標はこれだと思った。何をするにも、どんな気持ちでそれをするかが大切だと、ひすいさんは言う。私のように、気づくと人のことに意識が移り、自分の健康状態が置き去りのまま「ぐるぐる思考」で一日を終えているというような方がいたら、「何事もまず自分の心だよ」と教えてくれるひすいさんの動画はおすすめだ(たまにお金の話の動画もあり、私は心の関連しか観ていないのだけど)。

 

私の場合、夜眠る前や朝に目が覚めた時、パッと嫌なことが思い浮かぶというのが日常のサイクルになってしまっていた。これだけ同じことを忠実に毎日繰り返しているのだから、脳ってとても優秀だ。潜在意識が今までマイナスなもので埋め尽くされていたということなのだと思うが、潜在意識を変える方法というのがあるらしい。それにはまず、自分にかける言葉をかけること。その上でも、このあと挙げる「瞑想」は効果がありそうだ。

 

今年の目標は、「心(脳)を整える」に決まった。日々勉強あるのみ。

 

足を踏み入れた「瞑想」の世界

ひすいさんの作品に出会う少し前から、瞑想には興味を持っていた。瞑想と聞くとなんだか宗教じみていると思う方もいるだろうし、集中できる気がしない、または忙しくてそんな時間は取れないという方もいるかもしれない。私もそんな感覚を持っていたのだが、その日にあった嫌なことや不安ばかりをなぜか反芻して眠る前に自分を責めることが続いていた時、ふと瞑想を試したら、眠れることが多くなった。

 

外側に向いていた意識を、内側に向けさせるというのはなかなか難しい。でも、そこでとても大切だと感じたのが「深い呼吸をすること」と「呼吸に意識を向けること」。それまでは、マインドフルネスって何? だったけれど、実際に呼吸を意識することで自分の体に自然と集中し、他人の心でもなく未来でもない「いま、ここ」にいる自分自身を感じられていることに気づいた。

 

おすすめの瞑想動画

瞑想に使える動画はYou Tubeなどで結構出ていて、探すのも楽しい。最近よくかけているのは『ココイマ』や『Soul Healing Chiho』、『メディテラス』というYou Tuberさんの動画で、呼吸を整えるのと合わせ、体で無意識に力が入ってしまっている箇所をほぐすような誘導もあり、自然とリラックスできる。

 

『ココイマ』さんの動画

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『Soul Healing Chiho』さんの動画

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『メディテラス 〜マインドフルネス瞑想ガイド〜』さんの動画

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言葉の誘導がなく、曲だけでリラックスしたいという場合は『Moments of Worship』というYou Tuberさんの動画もおすすめだ。

 

youtu.be

 

さいごに

瞑想を取り入れてまだ少ししか経っていないけれど、眠る前を含め一日に何度か呼吸を意識するだけで、ストレスを感じている時にどれだけ呼吸が浅くなっているか、それによりどれだけ体の中の細胞が元気をなくしているかに気づくようになった。呼吸が安定すると体の状態もよくなり、心も落ち着く。

 

日常に色んなことが起きるのは自分では止めようがないけれど、人のことにばかり意識が向いていることに気づいた時や、自分の行いをなぜだか反芻してしまう時は、呼吸や体の状態への意識を日々積み重ねて心を癒し、整えていく。今までふわっとやっていた「心を癒す」ことを心を入れて取り組んでいくのが、今年の目標の一つだ。

頑張ってだめならまた振り出しに戻るだけ

年越しは近場へ旅行に出かけていたんだけど、震災や事故などもあってお正月気分にはなれなかった。家に帰る日に突然高熱が出て、年末も遅くまで働いてたから疲れが出たんでしょう、と友人には言われた。

 

簡単に新年の挨拶が言えない中で、自分の言動を後から「あんなこと言わなければよかった」と感じることも多い仕事始めだ。月初の業務量の多さもあっていつもよりも気疲れしていたせいか、連休初日は寝ていることしかできなかった。

 

自分の過去の言動をいつまでも思い出して一人反省会してしまうことを、文字通り「ぐるぐる思考(反芻思考)」と呼ぶそうだ。それによって苦しい時は、「この反省を次に活かそう」と決めるか、あるいはまったく違うことをする、反芻してしまう対象(人や場所)から物理的に離れる、などが良いらしい。

 

今まで良い人だと思っていた人が、実は無理なタイプだと気づいてしまったこともストレスになっている。その人はある時、私の心の塀を越えて「向こう側の人」になった。嫌だなこの人、と思ったら、その人との間に太い、ふっとーい線を一本静かに引いておく。自分さえ認められればそれでいいのですか、と、その人に問いたくなる瞬間が今までに幾度かあった。ただ、それがその人の生き方であり人間性なのだろうから、私には関係がない。ただ、好きじゃないというだけ。

 

「~べき」で自然に物事を考えてしまっていることも多いけれど、好き嫌いで捉えるのも時には良いものだ。「この人、嫌い~!無理~!」と思いながら、メッセージには絵文字とかつけて適当にやり過ごしましょう。

 

今週末には一旦忙しさからは解放されるはずなので、今月もやっとかという思いで週末を待ち望む。会議も嫌だし、チームワークも嫌。いつか昇進したいわけでもなく、実現したい仕事の目標があるわけでもなく、興味も特にない。最近は健診で良くない所が見つかったので、ただできるだけその進行を遅らせられるように、ストレスを溜めず夜はゆっくり休めたらそれが幸せ。頑張ってだめならまた振り出しに戻るだけだと思える、それだけが救い。ほころびが一つ見つかると、そこから自分の生き方をまた考えてしまう。

いつまでも変わらないものを求めて

耳にはめたEcho Budsから流れてくるクリスマスのプレイリストは、前日の夜YouTubeからダウンロードしたものだ。地下鉄でそれを聴いていると、大きな紙袋を持つ人や車内のスクリーンに流れている赤い箱のチョコレートのCM、モスグリーンのコートを着た人、すべてがクリスマス仕様に思えてくる。

 

しかし、自分の心はといえばクリスマスとはかけ離れた場所にあった。その日は頑張っているのに虚しく、自分では割り切ったと思っていても、そんな勝手な都合では片付けられない圧力があるように感じられた。上司に近い席にいるのにお構いなく鼻水や涙が流れてきて、それをマスクの中に収め、ハンカチを片手に席を離れた。

 

職場で飲むコーヒーも、腰掛けた椅子の感触も、誰かと交わす「お疲れさま」も私にとっては永遠ではない。何も心配しなくてもずっと続くと感じられる、毎年のクリスマスのようにそこに必ず待っていてくれる未来が、人生にもあったらいいのにと思う。

 

その日は、毎年この時期にだけ出るTULLY'Sのアイリッシュラテを飲んで帰ることにした。そのほろ苦い15分が、少しだけ気持ちを甘くしてくれた。

 

翌日、忘年会の返事を欠席で出したら、同じように欠席した人が私のところへタタタタッ、と青春みたいに駆け寄ってきて、「kasumiさんがいてくれてよかったです」と言ってくれた。確かに人がやらないことをやるのには勇気がいる。私も安心できてありがたかった。しかし、おそらく今回のように大人数の飲み会の場合、私たちが会場にいないことに最後まで気づかない人、果ては同じ会社で働いていることすら、気づいてない人も多い気がした。

 

人の感情や記憶ほど曖昧なものはなく、環境も必ず変わっていく。だから毎年変わらず訪れるクリスマスのように、自分にとっての「変わらないもの」を思い出す時間が欲しくなる。それがたとえ、ほんの15分でも。

記憶とは都合のいいもの

驚くほど冷える朝だと感じたのは、私が風邪気味だったからかもしれない。黄色い葉をつけた木々に朝日が当たり輝いているようだったが、私はいつもなら来るバスが時間通りに来ないことに妙に苛ついていた。

 

駅の階段を上りながら、マフラーに巻き込まれた髪が苦しくて、それを取り出した動作が昔流れていた『TSUBAKI』のCMを真似たような胡散臭さを帯びていた。何やってんだろうと思った。何で今日、会社に行かないといけないんだろう、と。

 

出掛けに急いで塗ったリップがマスクに付くのが嫌で、ティッシュを取り出してわしゃわしゃと口を拭い、それをくしゃくしゃにして苛々と共にバッグの中に投げ込んだ。それでもマスクの内側には既に、かすったような赤色がついていた。

 

電車であいた席に座り、流れる茶色い景色を目で追いながら、冷えた足元が暖房の熱に包まれていった。束の間あたたかくなった足で電車を降り、乗り換えの途中にあるパン屋併設のコンビニに入ったが、どのパンも不思議と美味しそうには見えず、最後に「ベーコン」という説明の文字を見てなぜか完全に買う気力が失せてしまった。

 

凍てつく空気を背にオフィスに入り、あいている席に着くと、向かいの席で少し日焼けした男性が「ケルセチンゴールド」と書かれた黄色いドリンクを飲んでいて、机にはGATSBYの汗拭きシートが見えた。この人だけ夏で、ここはスポーツジムか何かなのか?

 

隣の席に人がいないのを良いことに、大きなため息をついた。忙しい時は走り抜けられるのだが、繁忙期が過ぎると気が抜けるのか、何もしたくなくなってしまう。

 

結局、長いミーティングが更に長くなり、それが3セットぐらい続いたことで、自分の仕事を済ませる時間はほぼなくなってしまった。ただ、基本的に「どうでもいい」と思っていると処理のスピードだけは上がるため、何とか抱えているものを均して会社を出た。

 

早く帰りたかった。そこに所属している自分を終わらせ、繋がっているものもすべて電源OFFにして、週末にだけ心を向けたかった。

 

駅までの道で信号が青に変わるのを待ちながら、近くに建つ、以前働いていたビルを見上げた。その中にいる時はそんな余裕などなかったのに、ビルをこうして外から眺める立場になると、当時そこから見た夜景が綺麗だったことや、同僚とよくお菓子を交換したこと、少し離れたレストランまで食べに行ったハンバーグのことが思い出される。まるで良い思い出ばかりだったみたいに。

 

帰りはColdplayの『The Scientist』を聴きながらバスに乗った。時間とは不思議なものだ。時間が経てば経つほど、「やり直そうよ」と思えるような良い記憶だけが残っていく。別れがなければその感情もないのだと、忘れてしまいそうになる。

集団の中で感じる自分の体温について

何か一時期のコロナのようなタイトルになってしまった。

 

温かなやりとりに満ちた空間を少し離れた場所から眺めて、「ここにいる私の体温は今、何度なんだろう」と心の片隅で考えることがある。コミュニケーションに集中した頭は熱く、足先は冷えていて、じゃあ心はどうなのと聞かれたらそれがよく分からない。他でもない自分自身のことだし、周りの人の温度は感じるのに、自分の温度だけが分からないという時間が日々に存在している。

 

理想的で完璧な空間、絵に描いたような素敵なやり取り、ホスピタリティ。「仲間」。そういう枠組みに触れると、全部捨てて帰りたい、どこかに行きたいってなってしまう。うまく飲み込めなくて、実際にそれをやってしまったこともある。

 

枠組みから少し自由に生きて、いい笑顔で笑ってる人を見るとどこかほっとして、「私もそれでいい」「うまくできなくても、笑えたらそれでいいや」と思う。その時は少し、自分の体温を感じられている気がする。

 

「私は自分も大事です」「ポンコツです」と認めてしまうこと、それを普通に安心して言い合える関係が、いつからかとても好きで大切になった。

眠れない夜の先にあるもの

最近仕事で遅くなることがあり、先日出社した際は近くに泊まってしまった。部屋に着いて食事した後、22時過ぎにお風呂に入り、上がって時計を見たら23時半近かった。どう考えても浸かりすぎだったが、その日にあった出来事が湯船にひとつずつ溶け、なくなっていくような心地の良い時間だった。その後すぐベッドに入ったが、疲れているのになかなか寝つけず、最後に時計を見た夜中2時からしばらくしてやっと眠気が訪れた。

 

次に目が覚めた時、パッと目に入ったクーラーの電気表示が部屋全体まで照らしているようで何となく目が冴えてしまい、またしばらく眠れなかった。なぜだか分からないが、目を閉じながら「灼熱の砂漠を延々歩いているラクダと自分」を想像していた。

 

そこからいつの間にかまた寝たようだが、今度は「誰か、この部屋でいまシャワー浴びてる?」 という派手な流水音が聞こえてきて目が覚めた。何が起きたのか状況がつかめず、洗面所を覗いたが誰もいるわけがなかった。近隣の部屋の音が響いたのだと思うが、大袈裟ではなく大雨のような音に包まれながら、濡れそぼった心持ちでまた目を閉じた。

 

しかし、止んだと思うとまた降り注いでくる定期的な洪水音に、「いや、絶対誰かこの部屋で5分おきにお風呂入ってるでしょ」と再認識した。けれど何てことはなく、開けっ放しだった洗面所のドアを閉めたら洪水音も聞こえなくなった。安堵したら、次第にまどろみ始めた。多分明け方だったと思う。

 

そして次に目を開けた時には、チェックアウトの2分前だった。

 

携帯片手に30秒ぐらい状況がつかめなかった。相変わらずクーラーの電気表示だけは暗闇の中で煌々と光を放っていたが、カーテンの分厚さが優秀すぎたために外の明るさがまったく分からず、「こんなに暗いのに朝なわけないじゃん」と地球のサイクルを最後まで疑ってしまった。携帯の目覚しをとめた記憶も皆無だった。青天の霹靂。寝ぼけた頭で電話を探し、フロントにチェックアウトを延ばしてもらえないかお願いした。

 

チェックアウトまで1分もない所で電話しているのだから、「この人、絶対今まで寝てた」と思われるのは当たり前なのに、そうは思われたくない羞恥心が一応あり、起きぬけ特有の低い声で若干余所行きの話し方をしている自分が滑稽だった。チェックアウト時刻が10時で、夜中に洪水が起きる宿には注意。

 

清々しい朝というものを経験してみたい。