仕事と心のDiary

デトックスのための文章

考えすぎリモートワーク。

在宅で仕事していると、仕事・プライベートでそれぞれPCと携帯が1つずつ。他にTVのモニターやコードも色々繋いだりして、気づくと元々広くない部屋が配線とモニターだらけになっていたりする。

 

なんだか本当に、人に会う機会が減ったと思う。別にそれが苦というわけではないけど、誰かと久々に連絡を取り合い「会おうよ」となっても、3人以上だと「オンラインにしとこうか」という話になるし、その中にオンラインが苦手な人がいたりすると、「会える時まで待とうか」ということになる。

 

仕事ではコミュニケーション用のアプリを使って人と連絡を取り合っているけど、オンラインでのやりとりは顔が見えない分、相手がどう感じているかを考えすぎてしまう。チャットのように使う場合はスピードも大事だし、絵文字も色々あったりで、気づかないうちにとても疲れている。

 

仕事の間だけ男性的になれば、乗り切れる気はする。目的に集中して感情を閉じてしまえたら一番いいんだろうけど、やっぱり人のことは気になってしまう。必要なことを伝える時ですらそうなのだから、自分が情けなくて嫌になる。

 

多分もう世の中は変わって、仕事もプライベートも境目がなくなっていくのだろうと思うけど、仕事は仕事、それ以外はそれ以外と分けられる方が合っている自分にとって、ランチや雑談でプライベートを共有しなくても済むのは気が楽に感じる。少し距離感があるぐらいの方が、心地がいい。

 

今、リモートワークが増える中でとても売れていると聞いて、最近こんな本に手を出してしまいました。

honto.jp

 

精神科医の方の本で、相手の顔が見られないこと、不慣れな在宅ワークなどで人が考えがちなことについて色々書かれていて。こういう時だし、あまり無理せず60%ぐらいでやっていったらいいんだなと感じた。

幸せになるのが、怖いんじゃないの。

休み明けの仕事は緊張します。なんだか色んなことに対して心がむき出しになっている気がして、気を抜くと不意にかけられた言葉に傷ついたような気持ちになったり。周りは優しいはずなのに、発言することにも、行動することにも、怖さを感じることがあります。肩の力を抜いたらいいのに。

 

信用するということが、出来ていないのかなと感じます。それは経験がそうさせているのかもしれないし、もしかしたら私が、私を信用できていないのかも。

 

もう違う場所にいるんだけど、やっぱり常に身構えているなと感じるんです。安心して言葉にする。安心して訊く。安心して作業する。そういう安心感を持ったことが、今まであまり無かった気がします。気づかないうちに、厚い仕切りを作っていたのかもしれません。気を許せる人と、私にとっての「外の人」を分けるための。そうやって自分を守ってきたんだと思う。

 

なかなか殻を外せない、これは弱さだと思う。心にぽっかり穴が開いた時は、体は疲れているのに、なぜか書きたくなる。何かを形にしたい。伝えたい。そう思うのはいつも、満たされていない時だった。満たされてしまったらどうなるんだろう、という怖さも、ある時から感じるようになった。

 

昔、好きになってはいけない人を好きになったことがあった。友人は私に、「幸せになるのが怖いんじゃないの」と言った。「幸せになっていいんだよ」と。幸せになっていい。もっと自分をちゃんと見て。幸せは避けるものじゃない。本当にそうだ、と思う。喜んだ瞬間に消えてしまうものばかりではないのに。

 

心から安心して幸せになったらその先に何があるんだろうと思う気持ちは、まだ暗いトンネルの中を走る車に似ているかもしれない。その中に自分を置いてきてしまった。別に安心しても、大丈夫。

「15の石」から私が教わった、年齢を重ねることの魅力。

十五という数字は、日本では「完成」を意味するものとされる。そういえば十五夜は満月で、七五三もある。農耕民族の頃から取り入れられていた二十四節気(15日ごとに季節が変わるとする暦)は今も生活に在り、奈良時代以降は男性が成人を迎える年齢が15歳とされた。15歳で成人、早いな…。行先も分からぬまま、盗んだバイクで走り出した年齢ではなかったか。

 

www.tv-tokyo.co.jp

 

『新美の巨人たち』(テレビ朝日)で、京都・龍安寺石庭の特集が放送された。龍安寺は訪れたことがあり、庭の石の話もガイドブックなどで確か読んだはずだが、まるっきり新しい情報として新鮮に聞けてしまった。

 

石の配置についての説が面白かった。庭には大小様々な15の石があるが、配置が計算されており、座って正面から眺めただけではすべての石を同時に眺めることができない。この庭を真上から眺める時、私は大陸を表現しているように感じたが、ナビゲーターの近藤サトさんは「宇宙のようだ」と言っていた。実際、庭に夜空を描いたとされる『コペルニクス説』というのがあるらしい。

 

そして、石の置かれた場所を辿ると「心」という字になるとも言われている。石の配置にはルネサンス期の欧州で主流だった黄金比を採用することで、「調和」を表現しているのだという。山水(自然)と心、そして調和が託された庭。座った人間の目には全貌が見えず、ある場所に立った時に初めてすべての石を望める。この教えは、昔の自分にはやっぱりよく分からなかっただろう。年齢を重ねることの魅力を、この石庭は時代を超えて私達に提示している。

情熱を失くした時の処方箋『自分の中に毒を持て』

Netflixで『シェフのテーブル フランス編』という番組が配信されている。ミシュランシェフなどの日常を追ったドキュメンタリーだ。これを観ると、シェフはもちろん食材の作り手も世界中のレストランを創造しているのだと気づかされる。カキ一つとっても、フランスでは小さいカキの需要が多いが、大きいものを仕入れたいというシェフの意向があれば育て方を一から変えて数年単位で様子を見る。

 

昔、何かの番組で「フランスには”スシのシャリの部分はなぜコメでなければいけない?”などと言い出すシェフがいる」と聞いたことがあるが、一時でも現状維持をしようとする作り手は衰退する。厳しい世界なのだと思った。

 

youtu.be

 

変化というのは、その人自身の情熱が成す業だと思う。あと1ミリの甘味を求めて食材を育てることも、同じメニューは出さないと決めることも。変化には正解がなく、「ここまで」と決めてしまえばそれが最終地点になる。そこをあと1ミリ、あと1センチと日々超えていくのは本人の情熱でしかない。

 

人生で何が辛いのかと考える。大切な人と別れること。お金がないこと。病を患うこと。こういうのは全部辛いし、経験したその人にしか分からない痛みだと思う。でも、ゴールのない世界で創作を続ける人達を見て感じた。本当に辛いのは、人生に情熱を持てないことだ。

 

岡本太郎の『自分の中に毒を持て』(青春出版社)の中に、”一度死んだ人間になれ”という言葉がある。

(以下、本文より引用)

自分はそういう人間だ。駄目なんだ、と平気で、ストレートに認めること。

これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。

 

「自分はこんなこともできない奴だ」と知ることで、人は生きながらにして一度死ぬのだろう。精神の死。そこから「それでも」と沸き上がってくるのが情熱なのだとしたら、一度死んだ人間ほど可能性を秘めている存在はない。

 

”駄目なら駄目なりに、制約を受けないで生きていく”という言葉が好きだ。「頑張ったのに」という思いや自負があるほど死の期間は長くなる。でも、「私はポンコツなんだ」と腑に落ちて初めて、「じゃあポンコツなりにどうしたら私らしいのか」と自問する。肉体の死を迎えるまでに精神の死を繰り返し経験し、人はマグマを地上へ押し上げていく。誰もが最初から情熱を注げるものを得ているわけではない。

 

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに、平気で生きることだ。

 

生き生きと噴火する山を「羨ましい」と眺め続けてきた私は、岡本太郎氏の言葉によって、自分のまだ静かな山に引き戻される。どんな山も、生と死を繰り返す美しい山だ。情熱も変化も、まずは自分にOKを出すことから始まるのだと思う。


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月曜日の憂鬱。

なんだか心が曇りの日ってあるものだ。先日『家にいるのに家に帰りたい。』という記事を書いたばかりだが、今日の自分はそんな感じだ。朝から「月曜 働きたくない」と検索とかしてみたりして(病んでいる)。

wasuresasete.hatenablog.com

 

でも、検索してみたら世の中に同じような人がたくさんいて。それで少しホッとして、それでもやっぱり次にはため息をついて。「よし、今日はゆっくりペースで働こう」と決意した日に限って、忙しい。こんなモヤッとした頭で作ったモヤッとしたデータが本当に使えるのか?嘘でしょ、絶対。自分のことが信じられず、異常なほどチェックに時間を掛ける。そんな中、オンラインで雑談が始まった。それどころではない私は、適当な返しをする。終業後、我に返って「あんな雑な返しをして大丈夫だった?私…」と、終わりなき反省会。

 

こういう日は決まって、「これから先もずっと働くのか…」「そんなの耐えられない。どうやって生きていけばいいんだ私…」「もうすぐGWが終わってしまう。GW前なのにGWの中にいたい(?)」などの思考が渦巻く。

 

日曜の私は月曜が来ることを恐れ、夜更かしをする。月曜になれば、私の頭はあらゆる場所から不安だけを掴んできて心を刺激する。昔のように本心を抑え込んで奮起させ、馬力で一週間走り抜けるみたいなことが出来ない(すごい表現だけど)。

 

嫌われ者の月曜日。私の月曜日は、何だか可哀想だ。

大人の宝探し。

西日に当たったグラスが綺麗で、しばし見とれる。

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セピアみたいなパープルみたいな、ゆらんとした名前のない色。私の思うノスタルジーとはこんな温度だ。あたたかな光に照らされる道は、過去なのか未来なのか。

昼に撮ったこの写真を眺め、ふと時計を見る。22時22分。空の上の誰かからメッセージをもらった気持ちになる。私の人生の、何気ない一日に埋め込まれたギフト。

家にいるのに家に帰りたい。

『家にいるのに家に帰りたい』という本のタイトルを見て、笑ってしまった。これ、なんか分かる。朝起きた時から「あぁ、早く帰りたい」と思っていたことあったな。家にいるのに。

paypaymall.yahoo.co.jp

 

この本を実際に読んだ。濡れたままの髪でランドリーへ出掛ける描写が好きだ。置き場所のない気持ちを抱えて外に出る夜。私が曇りなく安心を感じられる日は、これから先来るのだろうか。まるで映画のワンシーンを観ているように、孤独の断片が詰まっていた。人には安心できる場所が必要だ。

 

私はこの本を読み、「棘」について想像する。棘が生える前、そこはただ凹んでいた。なだらかにすべてを受け入れる。そこに何日も何年も外からの刺激が加わる。押されたり引っ掻かれたり、冷たい空気に触れる。やがて耐えられなくなり、棘は生える。最初は小さいが次第に大きくなり、無視できない痛みや生きづらさを呼び寄せた。人は棘が生えた理由を無視して、自分の棘を「欠陥」だと思ってしまう。心が開けなかったり、人に辛くあたってしまったり、何も感じないように心を硬くすることを、なぜ自分はこうなんだろう?と責める。でも本当は棘は守ろうとした。自分の真っ新な部分が傷つかないように。

 

人を責めず、自分の棘を折ろうとするのは本来とても優しくて繊細だからだ。私はこの本の表紙のような、膝を抱えたイラストを見ると思う。自分を守るために、棘を出さなければやってこられなかった。それだけ心が頑張っていたってことだ。必要なのは棘を折る刃ではなく、心を帰す家だ。暖かくて、安心できる場所。