仕事と心のDiary

デトックスのための文章

カズレーザーさんの稀有な魅力を今更分析してみる。

カズレーザーさんに、2ch創設者のひろゆきさんやphaさんと似たとてつもなさを感じることがあります。フレディ・マーキュリーが「Mama, just killed a man」と歌いだした時に何の違和感もなかったような、どんな突飛さも自分のものにしてしまう特異性もあるイメージです。

 

今まで番組では見ていたけど、なぜか先日から彼が気になって仕方なくなり、ウィキペディアまで読んでしまいました。多分、好きなんだと思います。以前も、転職サイトを見ていたはずなのにいつの間にかこんな記事に辿り着いていました。

 

news.mynavi.jp

 

何か大きなことができるとも思ってないし、人を超幸せにできるとも思っていない。でも不幸にしない限りは、何をやってもそんなに歴史の流れに影響ないだろうって思ったら、ちょっと楽になるんじゃないかなと思って生きてます 

 

ちなみに彼の赤い服は、少年ジャンプの漫画『コブラ』の主人公(左手を銃にできる。辛い過去を忘れるために記憶を消して生きてきた過去あり)への憧れからきているらしいと知り、思わず作者・寺沢武一さんのTwitterを拝見した所、洋服どころかもうキャラクターの生き写しだった件。

 

 

それにしても、こんなにも有名になられた今、(記事)「落ちてるタバコを吸ってた時代と幸せ度が変わらない」…!?クイズ王になってもシケモク吸っても同じ幸福度とは、それだけ周りの環境に左右されない自己を確立しているということなわけで、それを格好つけて言っているようには到底感じられない所も猛者感満載なのです。

 

以前この本を読んだことがあるのですが、カズレーザーさんを見ているとそれを思い出します。数年前に結構売れ筋で、話題にもなっていた本です。

 

本能を揺さぶる 魅力の法則

 

 人が人(おもに女性)を魅力的だと感じるのはなぜなのか、またいわゆる「大多数の凡人」と「別格の人」の違いは何なのか、著者の視点で25の決め手が書かれています。

 

「別格の人」は魅力的だから一人で眠る夜がない。いわば「ネバー・スリープ・アローン」(略してNSA)の状態と称し、魅力的になる行動を実践するための『NSA検定テスト』が各章に設けられているという、ユニークな構成です。

 

この本ではいわゆる「別格な人」について、

 

経験値を増やして、期待値を下げる

他人や状況への期待をゼロにしたとき、人は圧倒的な魅力を放つのです。

自分を偽らず、自分を最優先にし続けている

 

と書かれている箇所がありました。これこそが、カズレーザーさんの魅力の正体を言語化したものだと思うのです(勝手に)。また、お笑いをしながらも秀才であるとか、稼いでいながらもシェアハウスやワケあり物件を選んでいる等のギャップまでも兼ね備えています。

 

番組で出しゃばるような姿は見たこともなく、ただ颯爽と博識ぶりを披露しながらも気遣いを忘れない知性。飄々とした自然体で、誰かの失言などに関しても忖度なく意見を言ったり自身もスキャンダル出したりしているのに、不思議と糾弾されない。

 

2chひろゆきさんやphaさんの意見が世間で一目置かれるようになっているのは「常識や固定観念にまったくと言っていいほど縛られていない」というのがかなり大きいと思うのですが、カズレーザーさんにもそうした稀有な印象があります。

 

常識や正体不明のルールに縛られるって、そもそもが世間から「こう見られたい」という欲に繋がっていて、それを抑えたり捨てたりすることが多くの人にとって難しいからこそ、それが出来ている人が「気になる存在」として映りやすいんだ。

 

…などと考えていたら、なんとモーリーさんは彼のことをもはやモーツァルトレベルで捉えていました。

 

news.mynavi.jp

 

周りでは頑張ってなんとか笑いを取ろうと汗流してるのに、カズレーザーさんは汗流さないんですよ。

「天才たちに共通しているのは、イージーにふわっとやること。あと勝ちたいっていう気持ちがない」と分析。

 

確かに、彼が焦ったりしている所をあまり見たことがないし、パートナーの方とのスキャンダルを撮られてしまったときも「ハハハ、そうです、そういうことですんで。」というような、ちゃかっとした反応だったらしいのです。心の中は分かりませんが、涼しい顔を見せているのも、「自分は何者でもない」という謙虚さのような気がしてきてしまいます。

 

カズレーザーさんのことが何となく気になる日々は、今後も続きそうです。

たまには言い訳したっていいし、逃げてもいい。King Gnuの『白日』は現実でも。

たまに自分が持っているすべてをリセットしたくなってしまうことがあって、それが今までの環境や人間関係の変化に繋がっていたなと思うんだけど、そんな私にある時、King Gnuipod(第2世代。古…)越しにこう歌ったのです。

 

真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
へばりついて離れない
地続きの今を歩いて行くんだ

 

た、たしかに…。随分と現実突きつけてくる。まるで『嫌われる勇気』を初めて読んだ時の、あの逃げ場のない感覚と同じじゃないか。

 


King Gnu - 白日

 

去年この曲をよく聴いていた頃は、「地続きの今」っていうのがすごく重く自分の中に響いていました。今聴いても、それは変わりません。どんなに何かを捨て、どれだけ遠くへ旅に出たとしても、それは自分にとって一時的なものでしかなかったからです。

 

いつかはまた自分自身として戻ってきて、日常を歩いていくことになる。それが意外なほどしんどくなる時期というのが、人生にはあるものだと感じます。多分、どんな人にとっても。

 

だけど、たとえ「地続きの今」だとしても、それは絶対に「ずっと同じ道」ではないんですよね。昔に比べて理解できるようになったことも結構あって、視野が狭まったり広がったりを繰り返しながら、見える景色も必ず変わっていきます。

 

真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
首の皮一枚繋がった
如何しようも無い今を
生きていくんだ

 

そして、首の皮一枚繋がって、そこから踏ん張らないといけない瞬間っていうのが人生には確かに何度もある(そしてそれは不可避だったこともあれば、自分からわざわざ飛び込んで機会を作り出したようなこともある)けど、

 

そのことがこうやって才能ある人達の手で歌詞として世に送り出され、たくさんの人に支持されている現実を思うと、誰もが少なからずこういう思いを持ちながら生きてるのかもしれない、きっとそうなんだろうと感じさせられるのです。

 

book.diamond.ne.jp

 

アドラーは「どんな状況であっても、自らの目的と望みに沿った感情を”君が”選んでいるだけなのだよ。ふぉふぉ」と片手にルネッサンスで言うかもしれない(※主観入ってます)けど、そういう時期があってもいいんじゃないかな。

 

首の皮一枚繋がって地続きの今を生きていくには、降りしきる雪の中に隠れることも必要なのだから。(King Gnuって、今更だけど凄い。ドラマ主題歌だったみたいだけど、仙人みたいな歌詞…)

 

首の皮を自分で離してしまいそうなら、好きなだけ雪の中に隠れて、たくさん言い訳もしながら、自分のペースでゆっくりして、「取り返しのつかない過ちの一つや二つくらい誰にでもあるしね」って最後に言えればいいんだと思う。それがいつなのか、今は分からなくても。

 

時間はかかるかもしれないけど、ここ歩いてよかったなって、心から思える日がやって来るといいなと感じます。

輝いて見えるものが自分に合っているとは限らない話。

社員旅行か…きついよなぁ、と感じます。でも、結構やっている企業があるんだなという印象です。求人の福利厚生などの欄を見ると、「社員旅行(年1~2回)」などと書いてある。何十年かで一巡して、再びブーム来たの?と感じます。

 

フリーランスのような働き方(コアタイム制や、ほぼ毎日在宅OKなど)の企業に多い印象なので、普段コミュニケーションがZoomなどのために、たまに旅行してコミュニケーションを取ろうってことなのかなと思う。

 

あとは、旅行を実施できるような環境(施設を運営しているとか、どこか特定の国と関連があって社員が出向きやすいなど)が整っているというのもあるかもしれません。

 

そういう企業のサイトを覗くと、若手ばかりというわけではなくても全体的にフランクで、和気あいあいとした雰囲気。年齢の垣根などもあまりないような印象で、ここに入ったらきっと皆いい人達で楽しいんだろうな、いいなと思う。

 

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…思うんだけど、ん?ちょっと待って、と自分に問いかけてみるわけです。ここは確かに素敵なんだけど、この写真の中に自分がいることを、本当に想像できてる?って。

 

たとえばフリーアドレス(※自席が決まっておらず、毎日好きな席を使う)で仕事しながら、休憩はシェアハウスみたいに、ソファで複数の同僚とラフに雑談。1か月に何回か開かれる立食ビアパーティ的なものに参加して、1年に1回の社員旅行に参加。

 

多分なんだけど、フリーアドレスは憧れでも、「私は」きっとそわそわする。シェアハウスみたいに皆でワイワイ話すのも憧れるんだけど、「私は」きっと、いつかそのオフィスを出て休憩に行くようになる。

 

ビアパーティは素敵だし経験もあるけど、「私は」きっと、2回目以降理由をつけていなくなる。社員旅行はサークルみたいで楽しそう。でも「私は」きっとその数か月前から、やだなやだなやだな誰と部屋一緒になるんだ~もう助けてコノヤロ~(乱)、って思ってると思う。

 

こんな風に働けたら素敵だなっていう憧れは憧れであって、自分がそれをやったら同じように輝くのかはまた別の話なのかもしれないなと思います。

感情を出せる場所を持つこと。

音楽と共に、人の人生を垣間見れる番組があります。

 

NHKでよくやっている『駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ」という番組です。BS1だと深夜によくやっています。

 

www.nhk.jp

 

様々な国の駅や空港などにピアノとカメラを設置して、通りすがりの人が演奏するのを放映している番組ですが、ただ演奏風景を映すだけではなく、弾いた人のバックグラウンドも紹介されます。

 

たとえば、なぜその土地に立ち寄ったのか。どういった職業についているのか。今どんな気持ちでいるのかなども、合わせて紹介されるのです。

 

「駅ピアノ」「空港ピアノ」「街角ピアノ」とそれぞれで番組が分かれており、たまにすべて合わせたバージョンがスペシャルとして放映されているようです。

 

この番組を観ていて感じるのは、楽譜がすでに存在する既存の曲を弾く人もいますが、自作の曲を弾く人の割合が結構多いということ。

 

スコットランドグラスゴーを収録した回は特に素晴らしい演奏が多かったのですが、そこで弾き語りをした20歳ぐらいの女の子がいました。

 

www.nhk.jp

※ちなみにこの写真↑は、中央の男性がせっかく素敵な曲を弾いていたのに突如仲間が乱入してきたため、テンションが上がり賑やかな曲に替わってしまった、という残念なシーンです。

 

その子が弾いていたのは、夜に聴きたくなるような静かな曲。失恋の経験をもとに作ったそうで、世の中の悩んでいる人に”孤独じゃないよ”と伝えたいからこれからも歌いたいんだ、と話していました。

 

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他にも、空港ピアノの回では、遠距離恋愛の恋人の元から自分の国へ帰る途中の男性がすごく素敵な悲しい曲を弾いていて、誰の曲なんだろう?と気になっていたら即興だった、ということもありました。

 

人の経験から生まれるものにはやっぱり心を動かされるなと、毎回感じさせられます。誰もが何かしらの創作者なのだと思います。

 

また、「通勤前にいつもここのピアノを弾く。落ち着いて仕事に取り掛かれる気がするから」とか、「普段はスーパーの店員をしている。今日は仕事が早く終わったから弾きに来た」などの話も多く、

 

海外では人々の生活に音楽や創作が深く根づいているということも実感します。

 

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ピアノを弾くことに限らず、歌うことでも、文章を書くことでも料理をすることでも何でもいい。感情を出す場所が自分自身の中にあるってすごくいいことだし必要で、人生を豊かにしてくれるものだとも感じます。

 

短い回だと15分程度で終わるものもあるので、おやすみ前に観るのもおすすめです。

嫌なこと最小限、好きなこと最大限。

お金と時間ってどちらも確かに必要だけど、どちらがより大切かと言われたら、時間かなと感じます。

 

お金は無くなったらまたどうにかして稼げばいいんだけど、時間はそういうわけにはいかないですもんね。総量が増えることはないのだし。

 

寝る前のラジオが好きで、『Voicy』アプリをよく使っているのですが、こんな放送を聞きました。

 

 

日本マイクロソフトの澤円(さわ・まどか)さんという方のお話。Voicyで人気だそうで、ランキングでも上の方に出ていました。

 

3つ目のチャプターでこんなお話をされていたのですが、それを聞いて思いました。生きている間は、できるだけ喜びを優先したいってこと。

 

01:43 時間は限られていますから。苦手なこととか嫌いなことなんかに使う時間を徹底的にですね、小さくして。

 

好きなことを最大限、長時間やるために人生ってあるという風に思った方がいいと僕は思っていて。 

 

この他にも色んなエピソードを聞いたのですが、きっとご自身が苦手なことや嫌なことにたくさんの時間を取られた過去があるから、こういう考え方に行きついたんだろうなと思います。

 

生きてると、「もうやめてください、神様ちゃんと私を見てますか?」ってことが起きるし、それがいつまで続くのかと思ったりするけど、

 

「じゃあ本当はどう過ごしていくのが良いんだろう」ってことに気づいたり、あるいは意地でも気づいてやるぞっていう気持ちで自分の望みに近づけたとしたら、それは結果的にその人にとって良かったことになる。

 

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苦手なこと、嫌なことを何度も頑張ってきた。でも消耗するばかりで、他のことが今度は全然できない。こんなの、生きていても全然楽しくない。それなら、もうそのことは無理に克服しようとしなくてもいいんだと思いました。

 

しんどいことがあるとどうしてもその表面の部分に気を取られて、酷いと休日ずっとそのことを考えているなんてこともあったりすると思うのですが、そういう時間を過ごしたからこそ、自分がどういう状況だとだめな人なのかに気づけるんだと思う。

 

せっかく頑張ってそういう状況を経験したのなら、同じ時間をじゃあどういうことに本当は使いたかったのか、どうしたら元のような状況ができるだけ避けられるのかを考えてみることも、きっと自分をいい方へ引っ張ってくれるんだと感じます。

 

時間って貴重で、嫌なこと・やるべきことはゼロにはできなくても、ネットで映画観たり、どうぶつの森やったり、好きな人とビール飲んだりする時間の方を自分のメインにすることだってできるんですよね。

 

「好きなことを最大限、長時間」って、いいなと思います。

人と同じじゃなくても、落ち込むことない。

少数派だから自分は普通じゃないんだとか、人と違うから自分は駄目だなんて、いつの間に考えるようになったんだろう。ただ純粋に、違いがそこにあるだけなのに。

 

「普通がいい」という病 (講談社現代新書)

 

泉谷閑示先生の書籍を買ったら、店員さんが付けてくれたしおりに『伊坂幸太郎 逆ソクラテス』と書かれていて、裏返したら「決めつけばかりの世界に、反旗を翻せ」と書かれていた。本としおりがこんなにマッチしてることってある…!?と少し感動する。

 

先日読んだ同氏の『仕事なんか生きがいにするな』の印象が残っており、他の本に興味があって『「普通がいい」という病』を読み始めた。

 

中盤は内容が難しそうな印象。まだ第一講しか読んでいないが、確かに人はこう考えてしまいがちなのではないかと思う。少数派の人に出会ったり、自分が少数派になった時に、相手の方が/自分の方が「異常なんだ」と。

 

でも、こちらは正常であちらは異常だなんて一体どうやって決まるの?と改めて考えると、確かに常識に左右されているだけなんだよなと感じる。

 

多くの人がそうであるからといって、自分も同じようにできるとは限らない。自分ができることでも、他の人には無理ってこともある。別にどちらがおかしいも普通もない。だって、人が違うのだ。

 

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一人ひとり何ひとつ同じことなどないのに、多数決で作った枠に全員をはめて皆で同じような生き方をしようだなんて、息が詰まりそうだ。

 

何かに関してたとえ少数派だからといって、自分に「異常」とか「難あり」などのレッテルを貼ること自体、そもそも不可能なことなのだと思う。

 

そして、泉谷先生の「不幸印のギフトは、自分が気付くまで何度も届くんだよ」という考え方が好きだ。精神的に辛い時、苦しい時。病名が付くかとはまた別の所で誰にでもこういう時はある。でもそんな時期、この言葉を思い出せたらいい。

 

この記事で、著者の方が話していたのも同じような感じだった。 

wasuresasete.hatenablog.com

 

体や心って、ただ薬を飲んでればOKというものじゃないんだな本当に。

 

本当に人が救われるということは、その人の中に潜在している力や眠っている知恵が目覚め、動き出してはじめて成されることです。 

 

ただ今日の夜とにかく眠りたいからとか、今日だけは落ち込んでいるわけにはいかないからと薬に頼ることがあったとして、確かに一時的にはそれで救われる。でも本当は、長い目で見て人が本来の「目覚めた」姿に戻るために薬があり、医師がいる。

 

不調は憎たらしいが、「ま、これも何か教えてるんだろうな自分に」ぐらいに少しの引っ掛かりを持ちながら生きることができたらと感じる。

連絡って、無理してするものじゃないよ。

連絡って、思うように返せなかったりもするものですが、そういう時期があっても別に仕方ないし、それでいいんだろうなと最近感じます。

 

『繊細さんの本』やHSPで有名な武田友紀さんが、2年間の休職を経て当時どのように変わっていかれたのか、本では少し読んでいたのですが改めてこちらのブログで読みました。

 

ameblo.jp

 

山口由紀子さんというコーチコンサルタントの方のブログで、当時武田さんから相談を受けられた際のやり取りが書かれています。

 

武田さんが人との関わりに敏感になっている時期の言葉の中で、

 

心を乱す人間関係や仕事、全てから距離をおいて、
さみしくひとりだと思う気持ちがある一方で、
ほっとする気持ちがあります。

 

というのがあり、当時のリアルな心境をそのまま書かれていることもあってスッと心に入ってきたのと、共感する気持ちもありました。

 

昔からの友人達にですら、なぜか連絡する気が進まなかったり、同僚や知り合いと距離を置きたくなる時期などは誰にでもあるものだと思います。

 

特に昔の同僚だと、近況など逆に知りたくないと感じることだってあるだろうし、飲み会の誘いも、ありがたいと頭では思いつつ返事が面倒に感じてしまうこともあります。

 

たとえば「また〇月あたりに会おうよ!」と誘ってもらったとして、「ぜひぜひ、また行きましょう!楽しみにしてます^^」と返信をするのは簡単なことですが、安易にそう返してしまうと、後々本当に連絡をくれた時に苦しくなることもあります。

 

自分が応えられる状況ではない時期に具体的な誘いをもらったら、都合が悪い旨とお礼は丁寧に伝えても、「また飲みましょう」「また楽しみにしてます」という言葉は伝えないでおくのもある意味誠意だよなと感じます。

 

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武田さんがおっしゃるように、どうしても心を乱されてしまう時期、踏み込まれたくない時期だって生きていればあるもので、それで周りの人と距離を置いたり、関係を切ってしまうこともあるかもしれない。

 

特に、何か自分にとって重要なことを決めたり、少しずつ自分のペースで回復していっているようなタイミングだと、人の言葉にいつもよりも敏感に反応してしまうものだとも思うし、一時的に離れてしまってもそれはそれでいいんだと感じます。

 

私は実際、春頃はメールやLINEの通知が来るのがどうしても辛く感じてしまい、通知を全部オフにしていたので、連絡をもらっても返信が3日後とかよくありました。

 

失礼極まりないけど、辞めた後の状況を訊かれることも多かったので、そのたびに気持ちが揺れたり影響を受けるのがしんどくて、オフにするという芸当を実行しました。笑

 

「既読」の表示って、要る?というのは、未だに感じます。以前はアプリを開く前にメッセージ全文が見られたのに、最近はそれも表示されなくなってしまったみたいなので、

 

機内モードにすると既読にならずに読めるらしい(けど、機内モードを終了した瞬間に既読になる)というのを知って、どうしてもの時はそれで読んだりしていたけど、なんだかな…と思っていました。

 

未読に成功しているかも分からず、機内モードでこそこそとメッセージを見る自分が、とても気弱に感じたんだと思います。

 

連絡を取らないとか付き合いを止めることでホッとするのなら、それもその時の自分なんだから仕方ないと思うし、心地よいことを選んでいくのも必要だと最近感じます。