仕事と心のDiary

デトックスのための文章

スコールを抱える心

職場に、責任感が強くて良い人がいる。学生時代にその人がクラスにいたら、学級委員だったかもしれない。体育の授業中に具合が悪くなった子を保健室に連れて行ったり、休んだ子の分まで掃除をしたり、授業では真っ先に手を挙げて、皆勤賞もとっていたはずだ。先生のお気に入りの子だったかもしれない。

 

「あの人は、良い人だよね」

 

いつしかそう言われることを目指せなくなった私は、その人をいつも眩しく見上げながら、果たしてその人がいつお昼を食べているのか、何時に上がっているのか。いつ休んでいるのか、顔色はどうか。支えにしているものは何で、何でそんなに菩薩なのかと、そんなことばかり考えている。

 

その人のスケジュール表を見たら予定で一杯だったので「休憩はちゃんと取りました?」と聞いたら、「あまり疲れていないし、大丈夫大丈夫〜。」と返ってきた。

 

でもたまにその人の落ち込みや静けさ、疲れなどの「影」を垣間見る時、私は自分自身が大丈夫ではなくなる。そうした人が心の中に抱える天気は、「この雨は梅雨だから仕方ないね」とか「天気予報で雪だと言っていたからこんなに寒いんだ」という具合に予測できる要素がまったくない、いわばスコールのようなものかもしれないからだ。傘もなく、ただただ突如水浸しになりながら、その激しさの中で時間が過ぎるのを待つ。私も昔、スコールを自分の中に抱えていた。

 

その人に相談する時間を、少しでも減らさなければと思った。

 

菩薩になれない私は、19時以降になったら「自分になろう」と決めている。よく分からない表現ではあるが、つまり「世間一般に仕事を終えて帰る人、家に着いて休息をとる人が増え始めるであろう時間帯になったら、心だけは家に帰る」というニュアンスだ。

 

その時間帯にまだ働いていたら、もう日中のように人に気を遣うのはやめる。伝え方が多少直球になっても、それが自分の残業の原因になっている相手なら気を遣わない。それがお客様でも、相手に落ち度があるのなら「待ってもらう」。そして、菩薩様が退勤することを見届ける(実際には、こちらが見届けて上がる日はほとんどないが)。

 

スコールが、心に降らなければいいだけだ。

許せませんか

先日泊まったホテルの部屋にバルコニーがあって、朝起きて外に出ようとしたら、今にも息絶えそうな蝉がいました。どうなるのかな…と眺めていて、ふと思い出したことがありました。

 

不思議なのですが、蝉ってこちらがピアノを弾いていると必ずベランダにやってきて、一緒にミーンと鳴き始めるのです。セッションかよと思うのですが。元々蝉は苦手で、でもそうやって偶然なのか、私が音楽をやっている時に寄ってきて鳴くのを度々経験し、「苦手」だけで片付けてはいけないような何かを感じるようになりました。

 

ホテルの蝉は私が支度をしているうちにいなくなってしまったけど、その時は部屋でやっぱり音楽をかけていました(窓は閉めていたけど…)。

 

蝉の耳は、お腹のあたりにあるのだそうです。知らなかった。

 

ホテルに泊まった日は、本屋が併設されているカフェで、久しぶりに山口路子さんの本を読みました。『大人の美学 245の視点』という本。凄い壮大なタイトルですよね。内容は、シャネルやジェーン・バーキンサガンなどの言葉(で山口さんの美学に通じるもの)が紹介されているといった感じなのですが、今回再び読む中で心に残ったのは、どの有名人の言葉よりも、243番目の視点として紹介されている山口さんのご友人の言葉でした。

 

私が話し終えると彼は言いました。

 

「許せませんか」

 

「許せませんか?」という質問調でもなく、「許せませんか、そうかあ、許せないのかあ」というかんじでもなく、あなたはそれを許せないのだろうか、ほんとうにそうなのだろうか、そんな問いかけが含まれている口調での「許せませんか」。

 

そのひとことを耳にした瞬間、体が硬直してしまいました。愕然としたのです。なぜなら、彼の問いかけである「許す」という選択肢が自分のなかにまったくなかったことに気づき、それが信じがたかったからです。

(『大人の美学 245の視点』279ページより引用)

 

許すというのは、確かに難しい実感があります。逆にすべてのことを「そんな側面もある」と受け入れて平穏な心で許すことができたとしたら、その境地まで達しているのなら悩みは生まれないのではとも思います。「許せないから」、世の中の大半の悩みは生まれている。

 

「許せませんか」

 

昔は「絶対許せないですよ!だって…」と返していたと思いますが、これを今の自分に問われたら揺れるかもしれません。それが「許す」なのか「諦める」なのかはまだ分かっていないのですが、どちらにしても自分と人は違う存在で、完全に理解しあうことはできない。

 

自分の信念を持つことは確かに頑張る力にもつながりますが、それによって許せなくなるほどの何かを抱えること、そこまで何かに執着することはどうなのか、考える日も多いです。それがたとえ自分の核になる考え方だったとしても、それを実践していく時、目の前にいるのは他人ではなく自分であってほしい。

 

簡単にはそうなれないからこそ、目指していきたい姿でもあります。

他に特に望みもなく

今日は休み。結構前から緑の多い所で一人になりたいという気持ちが続いており、宿をとって過ごしています。

 

今回泊まっているのは三井ガーデンプレミアというホテルなのですが、三井系列でいつも素敵だなと思うのは照明です。照明のセンスが、他のブランドとは少し違うと思う。

 

テーブルやベッドがどんなに良くても、照明の位置と種類によって過ごす時間の印象が全く変わってくる感覚があるのですが、三井のホテルは間接照明が絶妙で、白(青)系ではなく暖色系の照明が基本的に使われていると思います。漏れる光の量もちょうど良いので、夜が過ごしやすい。明るさや音のような感覚的な所を大切にしているかというのはホテルによって全く違うのと、コンセプトや金額だけで必ずしも判断できる部分ではないので、巡り合うのがなかなか難しい印象もあります。

 

温かいオレンジ色の明かりの中で好きな音楽をかけて、夕方になってほんの少し涼しくなったら窓の外で木がそよいで、「明日も休みだ~」と好きなだけ自分が感動する存在に没頭し、本当に独りの、ひと昔前の表現でおそらく男性にとっての「書斎」的な、この私の時間。世の中の命を日々頂いて生きている、この時間。

 

他に望みも特になく、頑張った先にある「凄いですね」も、頑張らなかった先で受ける「もっと」という言葉も、本当は心の根っこで重要ではなくなってきている気がします。

執着を捨てる一歩

先日、初めて23時まで働いてしまった。おそるべし月末月初。

 

一度そういう時間帯を経験すると何だか慣れてしまい、そこから数日同じような働き方を繰り返す。でもそれがしばらく続くと、突如「あ、もう出来ない。何も出来ない。」というタイミングがやってきます。そして、何もかもシャットダウンしたくなる時期がやってきます。

 

長時間働くのが危険だと思うのは、物事をポジティブに捉えられなくなっていくからです。誰かの言動が自分を否定しているもののように感じられたり(実際には多分そんな意図はない)、自分の言動も次第に他人を構えなくなっていき、少し気持ちが回復した後にそれを振り返ったり夜中に目が覚めてふとそれが蘇った時、罪悪感で押しつぶされそうになることもあります。

 

自分が水の底にいるみたい。そんな週末を過ごしました。疲れは良くないですね。

 

皆頑張っているから。だから自分も頑張らなきゃ。それも自分のコンディションによっては良くない心構えだし、人のために頑張れない自分を責めることも、誰かと比べることも、疲れている時は放棄した方が良いのだと思います。

 

こういう時に必要なのはきっと、一つひとつの出来事に執着しないこと。悪いことも、良いことも。過去にそうした出来事の一つひとつを紐解いて沢山のブログや本を読み、人の考え方に触れて、時に実際経験する中で自分が積み重ねてきたものに頼りながら、ただひたすら「反芻しない」ことだと思います。

 

あとは良い音楽を聴いて、その世界に浸ることでしょうか。

 

キャンドルの火を、眠る前に眺めることかもしれません。

 

本当に大切なもの以外に対して、執着を捨てたい。そこにどうやったら近づけるのか? と考えることがあるのですが、先日とあるきっかけで、もしかしたら日々の食事も関係しているのかもしれないと感じるようになりました。食事の内容もそうですが、自分自身の「食べ方」についても。

 

例えばお肉や魚を食べる時、自分は感謝というのを今まで全くと言っていいほどして来なかったことに、大変今更ながら気づいたというのがあります。

 

自分の欲求とは別で、体のために食事を「入れておかなければ」という意識でそもそも過ごしていたからだと思います。そうかと思えば「今日は夜遅くなりそうだから、お肉を食べておかないともたない」というような日もあり、刹那的で、とても手軽な世界線で生きてきました。テーブルの目の前に並んでいるのは命で、自分と同じものであること。でもそのことに、意識すら向けていなかったのです。それが食卓に並ぶまでには過程があり、自分自身はその段階を経ていないのに、それを手にしているのだということにも。

 

ベジタリアンヴィーガンとなると実際には今の生活ではその選択ができる時に限られてしまうので、「できるだけ野菜を摂る」、そして頂く時には「感謝する」、「残さない」というのを意識して生きていくこと。

 

これをせずにどんなに美しい曲を弾いても、どんなにいい服を着ても、だから何だというのか。

 

執着していると気づいた時は、他におざなりにしている大切なことがないか、自分は何を「しない」と決めていたんだったか、思い出したいと感じます。時々、欲をどこまでコントロールできるのか、何かに試されているような気持ちになることもあります。簡単には出来ないからこそ、そういう気持ちになるのだと思います。

 

自分のためだけに、何もない所からそれを目指していくというのはかなり難しいことのような気もするので、こういう風になりたいという姿や、「この人を守りたい」「この人の目に映りたい」と思う対象、この場所に行ってみたいと思う健全な範囲の「欲」を、自分の中に見つけることも大切だと感じます。

エリック・サティの不思議な魔力

You tubeで洋楽のプレイリストを色々探していたら、「おじいさんがピアノに向かって座っている昼下がりのヨーロッパ風アパートの一室」のサムネイルが出てきて、観てみたらエリック・サティを始めとしたピアノ曲集でした。

 

子供の頃、自分が習っていたピアノの先生が教えてくれるのはいつも明るくて華やかな曲ばかりで、でも私は本当は短調の曲が好きだったから、先生に習うのを止めた頃から割と暗い曲を好んで弾いていました。当時はそれを作曲した人の背景を考えることもあまりなくて、ただ曲調に惹かれていただけだった気もするのですが。

 

大人になってからは、明るい曲、華やかな曲の良さに気づくようになりました。現実を生きる中で圧倒的な華と明るさを創作するということは、決して当たり前のことではないと感じるようになったのが大きいかもしれません。昔の作曲家達の時代というと戦争や離別も多く、それにどんなに鍛錬したとしても、悲しみをまったく感じない心なんてきっとこの世の中に存在しない。明るい曲は天性の才能というより、その作曲家が明るいものを現実の中に見い出し、理想を描こうとした姿勢の結果なんじゃないかと感じます(もちろん、お金持ちのパトロンのご希望だったということもあると思いますが)。

 

でも、そんな実感も一気に吹っ飛ばし、人を深い森の中に閉じ込めてくれるのがサティかもしれない、とプレイリストを聴いていて改めて感じました。

 

エリック・サティの曲って穏やかで暗くて、明るいメロディもたまにあるんだけどそれすらも何か悲しい、という不思議。やっぱり短調の曲には惹き込まれます。「退屈の具現化」と言われているグノシエンヌ(特に第一番)なども、誰かが窓辺から退屈そうに雨の庭を眺めているような情景が思い浮かんで、大好きなのですが。

 

貧しい生い立ちで、宗教団体を立ち上げたり恋人を追いかけまわしたりと変わっていたので異端児呼ばわりされていたサティ。でもそういう生き方が、人の心を波立たせるような曲の創造に繋がっていったのかなと感じます。

 

youtu.be

年明けからこの一週間の備忘録

前回の更新から、とても久しぶりにブログを書いています。時間が経つのは早いものです。

 

ずっと尻込みしていた転職活動について昨年末からやっと動き始め、年明けてからの3カ月間は応募から面接、課題提出、条件・退職交渉などで目まぐるしく過ぎました。自分でもこのスケジュールに気持ちが追いついていなかったのですが、前の職場で3月中頃に最終勤務を終え、今新しい職場で働いています。

 

今も環境を変えたことの実感がまだあまり持てていないのですが、何かを決める時、自分はいつもこうだったなと思い返します。すっぱりと、完全な自信の中で選択できたことはありませんでした。軸を決めて書き出しても、あれこれ可能性を考えて最後まで悩み、いつまでも決められなくてチャンスを逃す。それは失敗が怖いから。損をしたくないからなのだと思います。

 

でも、選んだ時点では正解も失敗もなく、あくまでその時の自分が想像できる限りで決めるというのは、世の中の誰にとっても同じ条件のはずです。選んだものを正解にしていく道のりの方が本番で、何を選んでもそこで得るものが必ずあると前職で感じたことも、辛うじて今の自分の支えになっている気がします。

 

転職活動のことはまた改めてブログに書いておきたいと思うのですが、ちょうど働き始めて1週間、疲れもあって少し気持ちが沈んでいます。以下はその時のことを。

 

4/3 入社日。地元の駅で改札を通った後、ふとSuicaにチャージしておこうと思いつく。券売機にSuicaを入れたら故障。電車を一本逃して激焦り。無事出社。入社人数が多く驚く。担当の方が優しくて癒される。お昼は同期になる方々と。時間も気になり、会話少なめ。

午後は引き続き説明を受け、部署挨拶。配属先部門の人は在宅で少なめ。

 

4/4 諸々の機器設定など。部署のメンターの方とランチ。午後は外出後、残りの設定や部署の方達と顔合わせ。帰りの電車で、自分の言動は大丈夫だったか反芻。「金曜は会社帰りホテルに泊まろう」と思い立ち、探して予約。どこもこの時期は高い。

 

4/5 引継ぎがいくつか。部署全体が期初でとにかく忙しそう。ランチは自由と言われたものの本当に勝手に行っていいのか迷い、13:30まで待って一人ですみやかに。帰った後は上の方が出社され、引継ぎ少しと資料読みなど。

 

4/6 突然の雨。生理で鈍痛。途中駅で傘を買う。電車に乗り、薬飲もうとポーチの中を探したがなし。代わりに花粉症の薬が4錠。自分が嫌になる。会社近くのコンビニへ。店員さんに「頭痛薬ありますか?」と聞いたところ聞き返され、初めて相手が外国人だと気づく。店員さんが連れてきた店員さんもまた外国人。「あたまいたい時の薬、ありますか」と聞いたら、頭を指さして「頭ね、ノー、ありません」と言われ、絶望。

薬なしで持ちこたえられるかの試みということにして、朝から昼過ぎにかけて引継ぎ。一人でランチ。午後は予定していた作業と資料読みなど。

帰りの電車。乗り換え少なく時間かかる or 乗り換え多く早い(地元のバスに間に合う)のどちらを選ぶかで葛藤。結果、乗り換え少ない方で駅からタクシー乗車案を選択。地元駅についたら、タクシーが一台もいない。待ち人はあり。ご飯は食べて帰る。21:30のバスがあったので帰宅。明日の宿泊準備。

 

4/7 疲れがたまって、後ろ向きな気持ち。午前の引継ぎで流れがよく理解できずまた気持ちが落ちたが、同僚の方と話して少し浮上。一人でランチ。部内のオンライン面談。不安もあると話すと、Kasumiさんのペースで大丈夫と言ってくれる。1日通して「うちの部門は忙しい」話を聞いたので不安は増す。午後は数名の方から作業引継ぎ。優しい。引継ぎの流れをまとめて退勤。急遽PCを持って帰ることに。ご飯を買ってホテルへ向かう20時。コートで暑くて汗だくに。「駅から徒歩5分」が30分に感じる。

チェックインした後、部屋でAbemaを観ながら、しばらくその日にあったことを反芻。テレビの明るさと反対に気持ちが沈んでいく。

 

映画『ちひろさん』の中に、

「いま、無理。水の底にいるから」

「だったらなーんもしないで、早く浮かんで来いよ」

という会話があったのを思い出す。一人になると、途端にその日の出来事や感情が押し寄せてくる。思うことは沢山あったけど、じゃあ前の環境にずっといたからといって、私はどうなったろうとも考えた。音楽が聴きたくなったから、その後はいつも聴いているプレイリストをYoutubeでかけた。多分、日付が変わる前に寝落ちしていた。

 

4/8 8:00起床。ホテルで朝食弁当が数量限定で売っているとのことで、フロントに聞いたけどあいにく売り切れ。向かいの『まいばすけっと』に行ってパンとヨーグルトとチョコラBBを買う。ぼんやりしていたら、早くも10:00。「使い物にならない人」になった週末。

マッサージを予約していたので、ギリギリに汗だくでお店に到着。60分で生き返る。近くのカフェでひと休み。映画『AIR』を観ようか迷って、帰ることを選択。一昨日買った傘を紛失したことに初めて気づく。荷物が多すぎることと、もうコートはいらない時期になったんだなと改めて思った。

精神の若さ

今日は転職サイトに登録した。転職初めてでもないのに、登録するのがずっと気が引けていて。でも何となくカレンダーを見たら大安で、これは今日ということかと登録。

 

だらだら転職のススメ、という記事を先日読んだのです。忙しくても登録さえしておけば情報が入るし、気持ちの波もあるからそれが上がった時に動ければいいよ、という記事。

 

書類全部完全に作ってから登録しようと思っていたけど、それだと中々動かないのと、自分の中で「災難」の箱に入るような出来事が二月から立て続けに起きていて、このままだとそうしたことに時間を侵食されて今年が終わってしまうのかな、と思ったから。

 

サイトに登録していく作業の中でまた感じたのは、何やら随分違う所まで来たな、ということでした。カッチリと合うとまではいかなくても、せめて自分がなぜそこにいるかは分かっていなければと思います。 

 

でも、「40歳までに○○していないと…」のような言葉がたまにあるけれど、40歳になったからといって自分の身の回りのものを突然「これが私!」と言える人は、世の中にどれぐらいいるのでしょう。

 

私は環境を探し、慣れることや馴染むことに割と難を抱えてきた方なので、自分自身が40歳になった時、そんな揺らがないものを見つけている感じもしないし、だから世の中のそうなれなかった人達の気持ちは分かるような気がする。

 

そういえば、ヒールの高い靴を履いていた頃のことを思い出して、もし自分の精神がヒールに押し込められた足みたいになったら恐ろしいことだな、と思ったことがあった。変な想像だけど。

 

靴の形に合わせて骨が曲がり、肉が反れ、いつか元々の形状を忘れてしまう。やりがいや、生きがいに慣れるのは良いことでしょう。でもそうでない何かに慣れ、耐えてしまったら、何かを変えようとはきっともう思わなくなる。それが原型だという錯覚を起こしてしまうのでしょう。

 

年齢はいくつであっても、精神を若く保つことが至上命題、という感じがしています。