仕事と心のDiary

デトックスのための文章

執着を捨てる一歩

先日、初めて23時まで働いてしまった。おそるべし月末月初。

 

一度そういう時間帯を経験すると何だか慣れてしまい、そこから数日同じような働き方を繰り返す。でもそれがしばらく続くと、突如「あ、もう出来ない。何も出来ない。」というタイミングがやってきます。そして、何もかもシャットダウンしたくなる時期がやってきます。

 

長時間働くのが危険だと思うのは、物事をポジティブに捉えられなくなっていくからです。誰かの言動が自分を否定しているもののように感じられたり(実際には多分そんな意図はない)、自分の言動も次第に他人を構えなくなっていき、少し気持ちが回復した後にそれを振り返ったり夜中に目が覚めてふとそれが蘇った時、罪悪感で押しつぶされそうになることもあります。

 

自分が水の底にいるみたい。そんな週末を過ごしました。疲れは良くないですね。

 

皆頑張っているから。だから自分も頑張らなきゃ。それも自分のコンディションによっては良くない心構えだし、人のために頑張れない自分を責めることも、誰かと比べることも、疲れている時は放棄した方が良いのだと思います。

 

こういう時に必要なのはきっと、一つひとつの出来事に執着しないこと。悪いことも、良いことも。過去にそうした出来事の一つひとつを紐解いて沢山のブログや本を読み、人の考え方に触れて、時に実際経験する中で自分が積み重ねてきたものに頼りながら、ただひたすら「反芻しない」ことだと思います。

 

あとは良い音楽を聴いて、その世界に浸ることでしょうか。

 

キャンドルの火を、眠る前に眺めることかもしれません。

 

本当に大切なもの以外に対して、執着を捨てたい。そこにどうやったら近づけるのか? と考えることがあるのですが、先日とあるきっかけで、もしかしたら日々の食事も関係しているのかもしれないと感じるようになりました。食事の内容もそうですが、自分自身の「食べ方」についても。

 

例えばお肉や魚を食べる時、自分は感謝というのを今まで全くと言っていいほどして来なかったことに、大変今更ながら気づいたというのがあります。

 

自分の欲求とは別で、体のために食事を「入れておかなければ」という意識でそもそも過ごしていたからだと思います。そうかと思えば「今日は夜遅くなりそうだから、お肉を食べておかないともたない」というような日もあり、刹那的で、とても手軽な世界線で生きてきました。テーブルの目の前に並んでいるのは命で、自分と同じものであること。でもそのことに、意識すら向けていなかったのです。それが食卓に並ぶまでには過程があり、自分自身はその段階を経ていないのに、それを手にしているのだということにも。

 

ベジタリアンヴィーガンとなると実際には今の生活ではその選択ができる時に限られてしまうので、「できるだけ野菜を摂る」、そして頂く時には「感謝する」、「残さない」というのを意識して生きていくこと。

 

これをせずにどんなに美しい曲を弾いても、どんなにいい服を着ても、だから何だというのか。

 

執着していると気づいた時は、他におざなりにしている大切なことがないか、自分は何を「しない」と決めていたんだったか、思い出したいと感じます。時々、欲をどこまでコントロールできるのか、何かに試されているような気持ちになることもあります。簡単には出来ないからこそ、そういう気持ちになるのだと思います。

 

自分のためだけに、何もない所からそれを目指していくというのはかなり難しいことのような気もするので、こういう風になりたいという姿や、「この人を守りたい」「この人の目に映りたい」と思う対象、この場所に行ってみたいと思う健全な範囲の「欲」を、自分の中に見つけることも大切だと感じます。