仕事と心のDiary

デトックスのための文章

揺らぎ

最近日記を書く時間がなく、また時間ができても休息が必要だったりして書けないことが多い。書くというのは形のないものを形にしていく作業で、今更ながらその大変さを実感している。

 

昨日は母が頭痛が酷いと言って一日不調で、だから夜眠るとき、「苦しければ絶対に我慢しないで夜中起こしてほしい」と頼んで寝た。いざとなったらまた以前のように、タクシーか救急車で夜間診療してもらおうと決めて。我慢して我慢して、取り返しのつかない所で後悔するのが私の母なので、無理はしないでといつも伝えている。今日は回復していたので安堵した。

 

色々と終わりを感じることがある今年の春。花粉症や春風、三寒四温と揺らぎがどうも好きになれない春という季節だけど、今年は春が来るのが嫌ではなかった。

 

この揺らぎも何かを書く前の感情や思考と同じぐらい混沌としたものだけど、それが言葉となりはっきりした形になっていくことで、新しい季節を運んでくる。揺らぐことを嫌っていたけど、揺らぎがなければ決意も生まれない。次の季節もやってこないと考えたら、それはそれでいいのかもしれない。

 

この三月は三寒四温のように、色々なものが揺れながら定まっていくような感覚だ。「やっぱりそうだったのか」と、分からなかったことが分かる瞬間もある。揺らぎと共に、今まで固定して何とか維持してきたものがその状態を保てず、流れ出してきた感覚もある。でもその揺らぎは、もうそのままにしていいのかもしれない。「頑張ったね」と言えたら、多分それでいいのだ。

 

揺らぎよりも、悲しいのは感情がなくなることだ。積み上げたものは時間の経過と共に言葉を与えられて形となり、経験になっていく。でもそこに感情がなければ、時間は砂のようなものだ。形になる前兆ではない、ただすくっては落ち、すくっては落ちる現象の繰り返し。感情をなくす日々に慣れるのが一番悲しいことだ。

 

揺らぎは次の季節を運んでくる。夏しか知らない国、冬しか経験のない国よりも、揺らぎながら景色が変化していく国はありがたみを感じる機会に恵まれている。いつも完璧な夏、完全な冬の中で生きることは苦しい。

 

そしてそれより、暑さも寒さも、幸せも辛さも何も感じなくなり、「季節」というもの自体が自分自身の中に存在しなくなったら、その生き方は人間にとって、きっととても不幸なことだ。

 

逃避として感情を持たないようにすることは、それ自体が大きな救いや強さになることもある。でも、そのままずっと一定の温度だけで日々を過ごすことに慣れたとしたら。それを穏やかな季節だと勘違いし、あるいは騙して。それが必要という時点で、「歪」という言葉が頭に浮かんでくる。

 

この漢字の中の「正」は、常識としての「正」ではなく、その人自身の中にある、その人にとっての「正」。それがいびつで、ひずみのある状態になること。数々の言葉の中で、この漢字が「ここだよ」とこちらに向かって手を振っているような感じがするのだ。

 

走り続ける虚しさでも、誰かへの憎悪でも、感情は感情だ。揺らぎは生命であり、ひとつの温度しか持たない世界はきっと「死」だ。そのことが心に浮かぶ、春という季節。