仕事と心のDiary

デトックスのための文章

私だけの空間と、孤独に

最近、以前借りていたマンションのことをよく思い出す。

 

仕事から帰り、疲れた体で玄関のドアを開ける。洗濯機と冷蔵庫、キッチンを過ぎて、部屋に入る。白木のフローリングと、好きな本を並べた白い棚。つけていたピアスを外す。クローゼットは開けるたびに「キー」と軋む音がして、隣に住む人の気配もその音で伝わってきた。6畳のスペースは私には少し広く、遠く佇む高層マンションを窓から眺めるのが好きだった。住めなくても、眺めるという手がある。私は毎日、あの窓に切り取られた四角い空と明かりをささやかな幸せにしていた。

 

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思い出は美化される。自分が用意しなければ、食べ物もない。洗い立てのタオルもない。磨かれたバスタブも、濁りの無い窓もない。新鮮な生活がいつしか色褪せ、日々の雑事に適応できなくなっていった自分のことを、私は忘れてしまいそうになる。まだ仄暗い空の横で目覚めた夜、誰にも相談できずにひとり泣いた夜、ただ鉛のように重くなった心を押し出すためだけにお湯に浸かった夜が、今の私を作ってくれた。ずっと繋がっているのだ、あの時の自分と。

 

駅から部屋に向かう途中、『魔女の宅急便』に出てきそうなパン屋があった。「welcome」とチョコレートで印字された四角いパンが、入口を飾っていた。そこで初めてサンドイッチを買ったのは引越しの数日前で、こんなに美味しいのならもっと通っておけばよかったと後悔した。それに似た今のこの感情は、後悔なのか郷愁なのかが分からない。ただ、私はマイルストーンを自分から遠くに置きすぎていた。そこに向かうまでに見逃していたものが沢山あった。

 

あの頃の私のように、今あの部屋で切り取られた空を眺めている誰かの人生を思う。あのベランダに洗濯物を並べ、あの狭いキッチンで何かを作り、「キー」と音を鳴らしながらその日の洋服を取り出す。誰かが孤独な時に、あの南の空と窓の明かりがそれを支えてくれたらいい。そんなことを思いながら、それでも心の中ではずっと、あの部屋は私だけのものだ。