仕事と心のDiary

デトックスのための文章

鳥肌は嘘をつかない。

誰かに合わせたり、何かに焦ったり、そうした時間の淀みをきれいに流してくれるような音色。頑張って生きて、そして少し疲れている誰かにも、届きますように。

 


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そして、最近好きなウクライナのピアニスト・Evgeny Khmara(エフゲニー・クマラ)さん。ここ最近、彼の演奏ばかり聴いています。

 


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素敵な曲を聴いて、ざわざわ、と鳥肌が立つ瞬間が好きです。なぜか懐かしい気持ちになったり、まだ訪れたことのない場所を想像したりします。非日常に埋没していくような感覚です。自分が何かを生み出せなくても、それができる誰かがいてくれるお陰で、一日の終わりに自分自身に戻ることができる。

 

滅多に聞かれることもないけど、なぜあなたは生きているのか、ともし聞かれたとしたら、「鳥肌が立つような何かを味わうため」と言えるかもしれません。感覚を震わせる瞬間が、やっぱり一番、生きている感じがします。

 

夢を楽しむ。

変な夢を見た。

 

朝、オフィスに向かおうとしている。けれど行き方を忘れてしまい、ショッピングセンターのような場所をぐるぐる回っては、同じ場所に出てしまう。その途中で駅弁の売り場があり、知り合いがいた。選んでいる時間などないはずなのに、知り合いに薦められた弁当と、自分が食べたい弁当のどちらを買うか悩んでいる。その後、どうにも目的地に辿り着けないと諦めた私は、取り乱しながら職場の人に電話をする。

 

変な夢だ、と言いながら、こういう辿り着けない系の夢はよく見ることがある。その舞台はショッピングセンターのことが多く、他にはよく知っている地元の一角だったり、駅だったりした。初めての場所で迷うのはもちろん不安だけど、よく知ったはずの場所に知らない要素を発見することの方が、実は不安かもしれない。

 

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たまに、自分の見た夢に驚かされることもある。普段まったく意識していない人や場所が出てきたり、遥か昔に観たような記憶があるテレビ番組のシーンが映ったりする。それで記憶を辿り、気づく。あの時のことが実はこんなに脳に残っていたんだ、と。

 

人は普段、脳のほんの一部しか使っていないと聞いたことがあるけれど、夢を見る度、私はこれが本当かもしれないと思う。突き出た氷山の一角をすべてと思い生活していても、水中に続く潜在意識はもっと多くの「私」を把握していて、意識的に蓋をした過去から気まぐれに何かを掴み出し、海の上にポン、と投げる。思いもよらないシーンを受け取った私は、何かに見透かされたような、守られているような気持ちになる。私は忘れても、私が忘れていない。

 

普段は見えない海の中に、私はどんなシーンを残しているのか。いま目に見えるものをそんな思いで眺め、夢からの返事を期待する。どんなにおかしな夢でも、潜在意識が創り出す作品を私は楽しみにしている。

考えすぎリモートワーク。

在宅で仕事していると、仕事・プライベートでそれぞれPCと携帯が1つずつ。他にTVのモニターやコードも色々繋いだりして、気づくと元々広くない部屋が配線とモニターだらけになっていたりする。

 

なんだか本当に、人に会う機会が減ったと思う。それが苦というわけでは全然ないけど、誰かと久々に連絡を取り合い「会おうよ」となっても、3人以上だと「オンラインにしとこうか」という話になり、その中にオンラインが苦手な人がいると「会える時まで待とうか」ということになる。

 

仕事ではコミュニケーション用のアプリを使って人と連絡を取り合っているけど、オンラインでのやりとりは顔が見えない分、相手がどう感じているかを考えすぎてしまう。チャットのように使う場合はスピードも大事だし、絵文字も色々あったりで、気づかないうちにとても疲れている。

 

仕事の間だけ男性的になれば、乗り切れる気はする。目的に集中して感情を閉じてしまえたら一番いいんだろうけど、やっぱり人のことは気になってしまう。必要なことを伝える時ですらそうなのだから、自分が情けなくて嫌になる。

 

多分もう世の中は変わって、仕事もプライベートも境目がなくなっていくのだろうと思うけど、仕事は仕事、それ以外はそれ以外と分けられる方が合っている自分にとって、ランチや雑談でプライベートを共有しなくても済むのは本当に気が楽だ。同僚と少し距離感がある方が心地がいい。

 

今、リモートワークが増える中でとても売れていると聞いて、最近こんな本に手を出してしまいました。

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精神科医の方の本で、相手の顔が見られないこと、不慣れな在宅ワークなどで人が考えがちなことについて色々書かれていて。こういう時だし、あまり無理せず60%ぐらいでやっていったらいいんだと感じている。

幸せになるのが、怖いんじゃないの。

休み明けの仕事は緊張します。なんだか色んなことに対して心がむき出しになっている気がして、気を抜くと不意にかけられた言葉に傷ついたような気持ちになったり。周りは優しいはずなのに、発言することにも、行動することにも、怖さを感じることがあります。肩の力を抜いたらいいのに。

 

「信用する」ということが、出来ていないのかなと感じます。それは自分の今までの経験からそうなっているのかもしれないし、もしかしたら自分が自分を信用できていないのかもしれない。

 

もう違う場所にいるんだけど、やっぱり常に自分は身構えているなと感じます。「安心して」言葉にする。「安心して」訊く。「安心して」作業する。そうした安心感を持ったことが、今まであまり無かった気がします。気づかないうちに、厚い仕切りを作っていたのかもしれません。気を許せる人と、私にとって「外の人」を分けるための仕切り。そうして、自分をぎりぎりの所で守ってきたんだと思う。

 

なかなか殻を外せないのは弱さだと思う。心にぽっかり穴が開いた時は、体は疲れているのに、なぜか書きたくなる。何かを形にしたい。伝えたい。そう思うのはいつも満たされていない時だった。満たされてしまったらどうなるのかという怖さも、ある時から感じるようになった。

 

昔、好きになってはいけない人を好きになったことがあった。友人は私に、「幸せになるのが怖いんじゃないの」と言った。「幸せになっていいんだよ。もっと自分をちゃんと見て。幸せは避けるものじゃない」と。それを聞いて、本当にそうだと思った。喜んだ瞬間に、消えてしまうものばかりではないのに。

 

心から安心して幸せになったらその先に何があるんだろうと思う気持ちは、まだ暗いトンネルの中を走る車に似ているかもしれない。その中に長いこと、自分を置いてきてしまった。別に安心しても大丈夫。

「15の石」から私が教わった、年齢を重ねることの魅力。

十五という数字は、日本では「完成」を意味するものとされる。そういえば十五夜は満月で、七五三もある。農耕民族の頃から取り入れられていた二十四節気(15日ごとに季節が変わるとする暦)は今も生活に在り、奈良時代以降は男性が成人を迎える年齢が15歳とされた。15歳で成人、早いな…。行先も分からぬまま、盗んだバイクで走り出した年齢ではなかったか。

 

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『新美の巨人たち』(テレビ朝日)で、京都・龍安寺石庭の特集が放送された。龍安寺は訪れたことがあり、庭の石の話もガイドブックなどで確か読んだはずだが、まるっきり新しい情報として新鮮に聞けてしまった。

 

石の配置についての説が面白かった。庭には大小様々な15の石があるが、配置が計算されており、座って正面から眺めただけではすべての石を同時に眺めることができない。この庭を真上から眺める時、私は大陸を表現しているように感じたが、ナビゲーターの近藤サトさんは「宇宙のようだ」と言っていた。実際、庭に夜空を描いたとされる『コペルニクス説』というのがあるらしい。

 

そして、石の置かれた場所を辿ると「心」という字になるとも言われている。石の配置にはルネサンス期の欧州で主流だった黄金比を採用することで、「調和」を表現しているのだという。山水(自然)と心、そして調和が託された庭。座った人間の目には全貌が見えず、ある場所に立った時に初めてすべての石を望める。この教えは、昔の自分にはやっぱりよく分からなかっただろう。年齢を重ねることの魅力を、この石庭は時代を超えて私達に提示している。

情熱を失くした時の処方箋『自分の中に毒を持て』

Netflixで『シェフのテーブル フランス編』という番組が配信されている。ミシュランシェフなどの日常を追ったドキュメンタリーだ。これを観ると、シェフはもちろん食材の作り手も世界中のレストランを創造しているのだと気づかされる。カキ一つとっても、フランスでは小さいカキの需要が多いが、大きいものを仕入れたいというシェフの意向があれば育て方を一から変えて数年単位で様子を見る。

 

昔、何かの番組で「フランスには”スシのシャリの部分はなぜコメでなければいけない?”などと言い出すシェフがいる」と聞いたことがあるが、一時でも現状維持をしようとする作り手は衰退する。厳しい世界なのだと思った。

 

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変化というのは、その人自身の情熱が成す業だと思う。あと1ミリの甘味を求めて食材を育てることも、同じメニューは出さないと決めることも。変化には正解がなく、「ここまで」と決めてしまえばそれが最終地点になる。そこをあと1ミリ、あと1センチと日々超えていくのは本人の情熱でしかない。

 

人生で何が辛いのかと考える。大切な人と別れること。お金がないこと。病を患うこと。こういうのは全部辛いし、経験したその人にしか分からない痛みだと思う。でも、ゴールのない世界で創作を続ける人達を見て感じた。本当に辛いのは、人生に情熱を持てないことだ。

 

岡本太郎の『自分の中に毒を持て』(青春出版社)の中に、”一度死んだ人間になれ”という言葉がある。

(以下、本文より引用)

自分はそういう人間だ。駄目なんだ、と平気で、ストレートに認めること。

これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。

 

「自分はこんなこともできない奴だ」と知ることで、人は生きながらにして一度死ぬのだろう。精神の死。そこから「それでも」と沸き上がってくるのが情熱なのだとしたら、一度死んだ人間ほど可能性を秘めている存在はない。

 

”駄目なら駄目なりに、制約を受けないで生きていく”という言葉が好きだ。「頑張ったのに」という思いや自負があるほど死の期間は長くなる。でも、「私はポンコツなんだ」と腑に落ちて初めて、「じゃあポンコツなりにどうしたら私らしいのか」と自問する。肉体の死を迎えるまでに精神の死を繰り返し経験し、人はマグマを地上へ押し上げていく。誰もが最初から情熱を注げるものを得ているわけではない。

 

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに、平気で生きることだ。

 

生き生きと噴火する山を「羨ましい」と眺め続けてきた私は、岡本太郎氏の言葉によって、自分のまだ静かな山に引き戻される。どんな山も、生と死を繰り返す美しい山だ。情熱も変化も、まずは自分にOKを出すことから始まるのだと思う。


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月曜日の憂鬱

なんだか心が曇りの日ってあるものだ。先日『家にいるのに家に帰りたい。』という記事を書いたばかりだが、今日の自分もまたそんな感じだ。朝から「月曜 働きたくない」と検索してみたり(病んでいる)。

wasuresasete.hatenablog.com

 

でも、検索してみたら世の中に同じような人がたくさんいて。それで少しホッとして、それでもやっぱり次にはまたため息をついた。「よし、今日はゆっくりペースで働こう」と決意した日に限って、忙しいものだ。「こんなモヤッとした頭で作ったモヤッとしたデータ、本当に使えるのか?嘘でしょ、絶対」と自分のことが信じられず、異常なほどチェックに時間を掛けてしまう。

 

そんな中、オンラインで雑談が始まった。それどころではない私は、適当な返しをする。終業後、我に返って「あんな雑な返しをして大丈夫だった?私…」と、終わりなき反省会が始まる。

 

こういう日は決まって、「これから先もずっと働くのか…」「そんなの耐えられない。どうやって生きていけばいいんだ私…」「もうすぐGWが終わってしまう。GW前なのにGWでいたい(?)」などの思考が渦巻く。

 

日曜の私は月曜が来ることを恐れ、夜更かしをする。月曜になれば、私の頭はあらゆる場所から不安だけを掴んできて刺激する。昔のように本心を抑え込んで奮起させ、馬力で一週間走り抜けるみたいなことが出来ない(すごい表現だけど)。

 

嫌われ者の月曜日。私の月曜日は、何だか可哀想だ。