仕事と心のDiary

デトックスのための文章

『りっすん by イーアイデム』に寄稿しました

以前から大好きでよく読ませていただいていた、『はたらく気分を転換させる深呼吸マガジン りっすん』に、この度寄稿させていただきました。

 

www.e-aidem.com

 

働くことに自信がなくなり、燃え尽き状態になった数年前のことを書かせていただいたのですが、私自身がその時期にも『りっすん』の記事を読み、元気をもらっていたことを思い出します。

 

特に『りっすん』の中の「わたしがやめたこと」シリーズが好きで、何かをやめて身軽になっていった人たちの体験談を読むたびに、「私もあれ、やめよう。これもやめてやろう」とよく心に決めたものでした。

 

その後しばらくして、仕事に復帰した後にできた10円ハゲならぬ「1円ハゲ」(小さめだったからこう呼んでいる)に悩んだ時は、お医者さんのインタビュー記事を読み、「なるほど、自分がやっていることは自傷行為のひとつだったのか」と愕然としたり、「一つの仕事が続かなかったから、試しに二つに分散させたら毎日が楽しい」という人の記事を読んでは、その勇気に自分もまた勇気をもらっていました。

 

はてな編集部さんからお声がけをいただいたのは一年ほど前で、当時も安定のぽんこつだった私はご連絡を見逃してしまっており、メールボックスがいっぱいになったので整理しようと重い腰を上げた今年の夏、「寄稿のご相談」というメールを見つけました。急いでご返信したけれど、もう駄目だろうと諦めていたところ、お忙しい中でお返事をくださり、奇跡的に寄稿をさせていただけることになりました。

 

働けなくなった時の話というのは決して明るいものではないのですが、記事の内容を決めていく過程もとても新鮮で、自分自身も「休みながら進んでいけばいいんだ」とあらためて振り返るきっかけになりました。貴重な機会と、拙い文章を校正で生まれ変わらせていただいた編集部さまには、感謝しかありません。

 

今も時折、自分のことを「溶けない氷」と感じながら働く日々ではありますが、それでも休息をとりながらその緊張や冷たさを適度に溶かし、毎日を過ごしていきたいと感じています。

時間の濃度

やりたいことをやっている時は、どんなに時間がかかっても体は疲れるのに気持ちはすっきりとしていて、眠る時間がたとえ減っても、人や物に対して優しい気持ちでいられる。時間の積み重ねで人生は出来上がっていくから、こんな時間の中で日々を生きられたらやっぱり未来も変わっていくのだろうなと感じます。

 

将来の不安のための行動と日々の幸せを両立できたら一番いいけど。「先のことがあってこその今」という風に考えることが今まで多かったけど、「充実した気持ちで過ごす”今”の、その先に存在する”これから”」と考る時間は今まであまり持てませんでした。

 

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もしかしたら今よりもっとお金も仕事も縮小できるかもしれないし、それを数年以内にやってみたい。

 

時間は長さではなく、濃度で計るのがいいのかもしれない。時間は命そのものだけど当然いつまでもあるものだと思ってしまうし、時には長すぎるように感じることすらあり、扱いきれなくなることもあります。時間をどう感じているかというのが、その時の自分の状態を知る手段になっています。

「人の心」に没頭する

今日はお昼の時にYouTubeでメンタリストDAIGOの「誰も言わないけどHSPは資産です」っていう動画を見つけて、超真剣に観てしまった…。流れで他の番組も自動再生されたんだけど、それが早口すぎて人生で初めて速度を「0.75」に遅めてしまった。あんなに早口で話せるのもひとつの資産だと思う。

 

先日の夜、『ちひろさん』を観ようとしばらく退会していたNetflixを再開した。主人公のちひろさん、幽霊っぽくて結構好き。村上春樹の小説全般や、石田衣良の『美丘』あたりで出てくるような「男の理想(空想)凝縮した女どうでしょう?」感はあるんだけど。たとえば直子と緑を足して2で割ったような、浮世離れのファンタジーでしょうか…。周りの人達が抱えている寂しさとはまた違う、確実なダークサイドに存在しているちひろさんが何だか哀しい。詳しくは描かれていないけど、多分人生のどこかで生きることを一度置いてきた人なんだろうな。

 

でも、人との距離感は結構大事だと思う。誰かと騒いで笑って時間を共有したとしても、埋められないものがあることを引き受けて生きてこそという気もするし、だから「あなたはあなたでいいし、私も私であっていい」という個人主義的な考え方に近づきたいという思いもあります。

 

今日はフランスの一般女性のYouTubeを観ていたのですが、彼女がYouTubeの撮影をしながらパリのカフェに入っていった時、店員さん(女)からメニューを「バンッ!!」ってテーブルに投げられているのに、彼女はそれをまったく気に留めることもなく、自分がカフェの雰囲気を満喫することに夢中(=気づいてない?)という感じなのです。

 

これは、本当に凄いことだなと感じてしまう。もしこれが自分に起きたことなら、「怒ってるのか?」と気を取られ、下手したら長時間そのもやもやを引きずるのが通常運転なので、「店員さんは機嫌悪い」↔「でも私には関係ない」と自分の世界に没頭している姿には思わず笑みがこぼれます。フランス人って感情的なイメージがあるけど、根の所では論理的なのかもしれません。自分が変えられることと、変えられないことの見極めが上手な気がする。

 

人の心に関することは、本当に面白い。

忘れてないよね?

やっと金曜日。月末月初を乗り越えた。先月は咽頭炎で熱を出し、数秒前にやったことが思い出せない日と、人に優しくできない日もあった。「あなたがたは何をおっしゃってるの?」と素朴に尋ねたくなる依頼も月末に集中した。月末になると冬眠から目覚めたように突然動き出す人が多いのはなぜなのか、小一時間問いたい。

 

まだ夏だと思っていたらいつの間にか風は冷たくなっていて、やりたいことは予定していた半分もできなかった。でも、優先したいことははっきりしている。やっぱり時間が何より大切だと感じた。

 

仕事は6割のエネルギーと、人に迷惑かけない程度の責任で。1000%で燃えてる人がいても合わせない。これは自分が生きていくための、過去から編みだした鉄則みたいなもの。

 

忙しいときは、一旦我に返って自分に尋ねる。「今どこにいるか、分かってる?」と。

 

これがすべてじゃないよ!!!

 

と、自分を引っ張り戻す。毎日寝ていることしかできなくなった過去の自分も連れてきて、「忘れてないよね?」と、自分の後ろ姿を想像する。

 

最悪いつ仕事がなくなっても、きっと何とかなる。悪夢だったあの頃の経験が、結果的に今の自分を支えてくれているような気もする。

everything i wanted

今週は集中しようと思っても何も頭に入ってこなくなった日があり、いつもならもう少し残業する所だが仕事を早めに切り上げてしまった。もう何もしたくなかった。机の上に飾っているポトスに目をやると、前の日よりもさらに茎が伸び、葉も大きくなっている気がして、この部屋のどこにそんな精気があるのか、もしかして私の精気がそちらに回っているんじゃないのか? と感じた。

 

翌日は、目覚めたら午前10時を回っていた。窓の外がほの暗く、空気は湿っていて、洞穴の中にいるような心持ちだった。それまで見ていた夢は、思い出せないまま砂時計のように記憶の外に落ちてしまった。ただなぜか、強烈な懐かしさだけが余韻として残っていた。そのいたたまれなさを胸に、しばらくベッドの上で丸まっていた。

 

何かをどこかで間違えたような、もう取り返しのつかないような得体のしれない罪悪感を抱えながら、北の部屋でビリー・アイリッシュの『everything i wanted』を弾いた。初めてMVを観た時の衝撃が大きかった曲だ。外は雲行きが怪しく、近所の人がベランダの物を慌ただしく中にしまっている音がした。

 

youtu.be

 

夜は髪を洗った後、ドライヤーで乾かすことの必要性を考えはじめていた。「髪が傷むから、洗った後はすぐ乾かした方がいい」というのを妄信的に今まで採用していたが、それって本当なのか。実際は、洗った後すぐに無理矢理乾かすからこそ、髪が広がったり傷んだりするんじゃないのか?

 

…つまり、ただ「髪を乾かすのが面倒くさいから自然のままでいたい」自分を100%肯定してくれる言葉を求めていただけなのだが、昔買った『HOW TO BE PARISIAN』(早川書房)という本の中に、見事にその言葉を見つけることができたのだった。

 

髪はドライヤーで乾かさない(ドライヤーなんて捨ててしまってもいいくらい)。夏は自然乾燥、冬はタオルドライというエコな方法で。

 

湿ったままの髪で寝ると、朝には自然の動きができ、これが意外と悪くない。

 

極めつけは、

夏は、「海水」と「太陽」という二つの要素が髪に良い影響を与えてくれる。少しザラッとした手触りに、少しだけ塩気を含んだ髪。太陽を浴びてトーンもやや明るくなり、気持ちまで明るくなってくる。

という、日本とは真逆かつ、恐ろしくプラス思考な表現を見つけた。常にあるがまま、自然体を大切にするフランスの言葉。それに背中を押されて中途半端に濡れたまま眠ってしまったが、翌日しっとりしていた。しおれた夏の日の自分に採用決まり。

できないことは、悪いことじゃない

一昨日は仕事の帰りにバスから大きな月が見えて、あまりにそれが明るかったので、その時に考えていたことが一瞬吹き飛びました。何かを考える時に人は斜め上を見ると言いますが、その先に月がぶち当たったのは初めてで、あそこからこのバスを眺めたらどれぐらい小さいのだろうか? とふと思った時、「ああ、そうだ。自分にとっても誰にとっても、この人生は初めてなんだ」と、なぜか感じていました。

 

 

最近、体調不良の末に音信不通になってしまった職場の人がいます。少し離れた立場にいる私から見ても普段から忙しそうだと分かり、その人に何かを聞いても、返信がないことが大半でした。同じように返信を待っている人達が「その人の時間を押さえて直接聞いてしまった方が早い」ということでスケジュールを入れに行くから、その人の予定表は常に埋まっていました。

 

その人は休暇を取る時、”休んでいる”体で周囲から連絡が来ないようにして、むしろその時に手を付けられていない業務やメール返信を一気に片付けている様子でした。でも普段やりとりをする時はその様子を出さなかったから、特にそこまで問題はなく回っていると感じていた人も多い気がします。

 

この人はいつか潰れてしまうかもしれない。どこかでそう感じていた私は、連絡がつかなくなったことを聞いた時にさほど驚きませんでした。「だって人間じゃん」と思いました。やることはとめどなく流れてきて、一つ考えているうちに一つ、また一つと時間のかかる課題が集中する。機械ではないのだから、抱え込む前に捨てて断って、人に任せないともたないことも多いのが現実です。

 

その人の実際の状況は分からない所もありますが、私も以前は「捨てられない」「断れない」「人にお願いできない」揃いの人間だったので何となく他人事に思えず、バスの車窓から月とぶつかるまでそのことを考えていました。過去に達成できたことや、人からの評価を捨てることができない。「できません」「お願いできますか」が言えない。苦手な人からすら、好かれている実感がないと気が済まない。仕事の面だけではなく、家の中には捨てられない古い資格の本、学生時代の教科書をはじめ毎回の授業で配布された資料が膨大にあって、もう使うこともないし内容も覚えていないのに、捨てたら過去のすべてがなくなる気がして手放せませんでした。

 

でも、「できません」のたった5文字。「すみません、今はできません」というたった12文字を伝えるだけでこんなにも心が楽になり、それが他の誰かの経験値や評価を上げることにもつながるのだと知った今、もうその言葉を使わない選択肢は自分の中になくなりました。「さすが」の3文字を諦めるだけで、人が助けてくれることもある。働く時は、もうそれで充分だと思っています。労働時間が長い時は、その時間や場所に心を置かないこと。職場で「さすが」と言われることなんかより、その方がよほど努力すべきこと、必要不可欠なことになっています。

 

「さすが」「さすが」と塔の上に押し上げられ、降り方も分からず飛び降りるしかなくなってしまう人が、世の中からいなくなればいい。もっと気軽に、人が自分の弱さやできないこと、どれだけ至らないか、どんな失敗をしてきたのかを話せる場所があらゆる環境にあり、それを許容できる空気が醸成されたらとも思います。世の中、本当はそんなにできる人ばかりではないはずです。

 

人の顔色を気にしてしまって、優先順位がうまく判断できなくて、人前でうまく話せなくて、音や光が気になって集中できなくて、必死に作業してたらいつの間にか死にたくなって、休んだら終わりな気がして、社会に戻るのが怖くなって。そんなのは全部、全然悪いことじゃない。誰にだって起こりうる自然なことで、それだけ日々頑張っているのだから、人間なのだから仕方がないと思います。

 

むしろそれを隠そうとして、自分はできる、やらなければ、この程度で負けていては駄目だと、誰も迎えに行けない場所に自分から登りにいってしまうことの方が悲しい。世の中には178万の会社があって、自分という人間は一人。だから、働きすぎて体を壊した時は、その時にどんな形態で働いていようといつでも仕事を一番に捨てられる覚悟を持てる自分でいたいと感じます(「捨てる」というのは、退職、休職、どこまでやるかをちゃんと線引きしてそれ以外はやらないなど、色々あると思うのですが)。

 

仕事は、誰かがいなくなった時にも回るようでなければその職場はもともと機能していないも同然だけど、病気になった時の苦しみは、自分以外に誰も代わってくれないからです。できないことは、全然悪いことじゃない。ただ、何かができない時に削っていいのは食事でも睡眠でも、休息でもない。自分自身ではないのだというところに、いつでも立ち戻りたいと感じます。

自愛について

今日は何となく気持ちが沈んだ日でした。自分の今の生活のことや、「自分を愛する」っていうのはどういうことなのか、そんなことを一日中考えていた休日でした。

 

海外では頻繁に使われているこの「愛する」という言葉は、英語を使う環境ならもっと身近にあると思いますが、日本語となると使う機会は滅多になく、それでいてとても重要な言葉だと思います。

 

最近は心理学や専門家の方の話よりも、自分の気になる人達が過去の経験からどのように自分を愛することを実践しているのか? という身近な話の方が何となく気になっていて、「自分を愛するっていうのは、自分の失敗もコンプレックスもすべて受け入れることだよ」という人もいれば、「自分の考え方ひとつで目の前の世界が180度変わる、自分自身がその力を持っていることを知って、見たい世界を自分に見せていくことだよ」という人もいて、人はみんな自己体験の中から、その答えを見つけていっているものなのだなと思います。

 

また私の友人には、いつ話を聞いても自己愛の人だなと思う人がいて、メンタルの不調がまず身体の不調から来るものだということで鍼やハーブティ、ヨガに体質改善と、生活に取り入れるというよりもライザップ的にコミットしています。

 

私自身は身体よりも精神的な所から入ることが多く、「自分を愛する」というのは(上の「受け入れる」に近いのですが)「どんな時も自分に寄り添うこと」というのが一つあると思うのですが、それだけだと物足りないと感じる自分も出てきていて、もっと能動的な何か(例えば、何かを積極的に取り入れる、あるいは何かを今以上に積極的に止めること)が欲しいと感じることも増えてきています。

 

人と過ごすことでその時間は確かにパワーを貰えることもありますが、その感覚はずっと続くものではないし、誰かといても、いつも理解しあえるわけではないので孤独を感じることもあります。やっぱり自分なくして良い関係を築いたり、相手を理解することは難しい。その意味で、自愛について哲学的なものを持って生きていくことにはとても興味があるし、今の時代を生きていく中では大切なように思います。

 

自分自身を別の人間のように客観的に眺めて付き合っていく、”もう一人の自分”感というのを今後もっと意識していけたらいいというのも、一つ感じていることです。どこかへ行く時に「自分と一緒に」出掛ける、「自分に」ご馳走するなどの感覚です。ふと気づくと、思いやることとは別の次元で他人のことばかりが頭の中を支配していて、それが続くと明日が来ることが嫌になったり、迷いが生まれたりする実感があります。でも元々、自分を差し置いては何も無いのだから、自分を別の人として一度眺めてみて、必要なケアすることで変わるのではないか。「自分が自分と一緒にいることが一番の安心」という感覚を持ちたいと感じます。

 

他の人のことで頭が支配されていたら、また他人目線で生きたとしたら、孤独は淋しくて、つらくて、恥ずかしいものになってしまうかもしれない。でも、自分自身と付き合っていく人生だと考えたら。そして自分にしてあげられることを本気で考えていけるようになったら、どう変わっていくだろうかと思います。