仕事と心のDiary

夜になったら色んなものを脱ぎ捨てよう。

優等生なんて、やめてもいいと思う件。

いい人、無難な人でいようとする自分に、苦しくなったことはありませんか?そんな時にもし「あなたがそうして頑張った先に、希望はありますか?」と問われたとして、「はい。」と答えられないとしたら、なぜそれでも自分は優等生でいようとするのでしょうか。

 

それは多分、周りからどう思われるかが怖いからではないでしょうか。

 

f:id:sans---souci:20200517201058j:plain

 

人って、どんなに両親が愛し合って生まれたとしても、生まれること自体を拒んだり選択したりすることはできません。

 

もちろん、命は真に尊いものです。色んな偶然が重なり、色んな人のお陰で生きられているのが今日という一日です。それは否定できないけど、

 

でもだからといって、周りの人を喜ばせて「すごいね」「立派だね」と言われるような生き方、器用な生き方ができなかったとしても、自分を責める必要などないということです。「生まれて良かった」と、思えない時期があってもいいんだということ。それには社会情勢は関係ありません。すべてはその人のタイミングです。

 

産んでくれた親という存在についても、親だって立派な他人であり、自分以外の人がどんなに望んで自分が生まれたとしても、究極を言ってしまえばそこまでは自分以外の人達の満足でしかないと言えます。綺麗ごとではなく、実際に生きていくのは自分自身。生まれたからには、「生きられる」という言葉の反面、「生きていかなければいけない」という前提もあります。

 

私は気持ちが落ちた時、「別に生まれたくて生まれたんじゃない」と思うことがよくありました。そんな風にしか思えない自分のことも責めました。周りの人達は与えられたものを存分に生かしてちゃんと強く生きているのに、自分はなぜ失敗ばかりなのか、うまくやれないのかと長い間思っていました。

 

だけど多分、辛い時はもうそれでいいんです。

 

f:id:sans---souci:20200517212028j:plain

 

昔、どこかで見たブログに、”生まれてしまったから、どうせなら好きなことを”という言葉が書かれていて、本当にそうだなと思ったのを今でも覚えています。必ずしも、誰もが喜んで楽しんで日々を生きているわけじゃない。人間なのだから、「なんで生まれたんだろう、生まれたいと望んだわけじゃないのに」と思ってしまう時期があってもいい。

 

本当に辛いときは、「こっちだって生まれたくて生まれたんじゃねーよ」と思うことで少し図太くなれるのなら、それでもいいじゃないですか。人から何かを求められた時、自分で自分を責めてしまう時に、それで気持ちが楽になれるならそれでもいい。

 

周りは色んなことを言うかもしれないけど、自分の人生を代わりに生きてくれるわけではありません。「それいいじゃん!やってみなよ!」とか、「そんなのやめておけ」「まだ言ってるのか」と言われたりはしても、決断をした後その道を実際に歩くのは自分です。生まれてから死ぬまで、人は自分の人生を生きることから逃げられない。

 

他人の人生にあれこれ口出しをしながら、あたかも自分がその人生を生きたような気になって満足してしまうことほど怖いことはないし、自分自身で考えることを止めて何年も経ってから人を恨むことほど怖いこともありません。

 

自分で答えを出すというのは、時に苦しいものです。結果を誰のせいにもできないし、誰もその先を歩んでくれません。だけどそうやって生きていく以外に方法はないんだと思います。どんなにアドバイスをもらったって、最後に決めるのは自分。

 

f:id:sans---souci:20200517213138j:plain

 

「生まれたくて生まれたんじゃない」といって、答えを他人に委ねて終わりにしたくなってもいい。だけどとにかく言えるのは、そういう時の自分はとても疲れているということです。だからそういう時に必要なのは、人と比べることでも周りに気を遣い直すことでもなくて、

 

自分の持っているもの、出来てきたことをちゃんと思い出すこと。今までも、選んだ道でやってきたから自分は今日息をしている。すべてが予定通りに進んできたわけじゃなかったけど、自分は今日も生きてる。これからだって一緒。そう思うことなんじゃないかと感じます。