仕事と心のDiary

デトックスのための文章

優等生なんて、やめてもいい

良い人や無難な人でいようとする自分に、苦しくなったことはありませんか?

 

そこでもし、「あなたがそうして頑張った先に、希望はありますか?」と問われたとして、「はい。」と答えられないとしたら。それでもなぜ、自分は優等生であろうとするのでしょうか。

 

それは多分、「周りからどう思われるか」が怖いからではないでしょうか。

 

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人は、どんなに両親が愛し合って生まれたとしても、生まれること自体を拒んだり選択することはできません。

 

もちろん、命は本当に尊いもの。奇跡のような偶然が重なり、多くの人のお陰で生きられているのが今日という一日です。

 

それは否定できないけれど、でもだからといって、周りの人を喜ばせて「すごいね」「立派だね」と言われるような生き方、器用な生き方ができなかったとしても、自分を責める必要などないのでしょう。

 

「生まれて良かった」と、思えない時期があってもいいのだということ。それには社会情勢や年齢は関係なく、すべてはその人自身のタイミングのように思います。

 

産んでくれた親という存在についても、親だって立派な他人であり、自分以外の人がどんなに望んで自分が生まれたとしても、究極を言ってしまえばそこまでは自分以外の人達の満足でしかないと言えます。綺麗ごとではなく、実際に生きていくのは自分自身。生まれたからには、「生きられる」という言葉の反面、「生きていかなければいけない」という前提もあります。

 

私は気持ちが落ちた時、「別に生まれたくて生まれたんじゃない」と思うことがよくありました。そんな風にしか思えない自分のことも責めました。「周りの人達は与えられたものを存分に生かして強く生きているのに、自分はなぜ失敗ばかりなのか、うまくやれないのか」と、ずっと思っていました。

 

だけど多分、辛い時はもうそれでいいんです。

 

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昔、どこかで見たブログに、「生まれてしまったから、どうせなら好きなことをしましょう」と書かれていて、本当にそうだと実感したことを今でも覚えています。誰もが必ずしも喜び、楽しみながら日々を生きているわけじゃない。人間だから、「なんで生まれたんだろう、生まれたいと望んだわけじゃないのに」と思ってしまう時期があってもいい。

 

本当に辛いときは、「こっちだって生まれたくて生まれたんじゃねーよ」と思うことで少し図太くなれるのなら、それでもいいじゃないですか。人から何かを求められた時、自分で自分を責めてしまう時に、それで気持ちが楽になれるならそれでもいい。

 

周りは色んなことを言うかもしれないけど、自分の人生を代わりに生きてくれるわけではありません。「それいいじゃん!やってみなよ!」「そんなのやめておけ」「まだ言ってるのか」などを言われたりはしても、実際には決断をした後、その道を歩いていくのは自分です。生まれてから死ぬまで、人は自分の人生を生きることから逃げられない。

 

他人の人生にあれこれ口出しをしながら、あたかも自分がその人生を生きたような気になって満足してしまうことほど怖いことはないし、自分自身で考えることを止めて何年も経ってから、人を恨むことほど怖いこともありません。

 

自分で答えを出すというのは、苦しいものです。結果を誰のせいにもできないし、誰もその先を歩んでくれない。でも、そうやって生きていく以外に方法はないようにも思います。どんなにアドバイスをもらったとしても、最後に決めるのは自分自身。

 

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「生まれたくて生まれたんじゃないよ」といって、答えを他人に委ね、すべてを終わりにしたくなることがあってもいい。だけどとにかく言えるのは、そういう時の自分は、本当にとても疲れているということです。

 

だからそういう時は、人と比べること、または周りに気を遣うことよりも、自分の持っているもの、出来てきたことを、ちゃんと思い出すこと。今までも選んだ道でちゃんとやってきたから、自分は今も息をしている。すべてが予定通りに進んできたわけではなかったけど、それでも自分は今も生きている。これからだって一緒。

 

苦しくなったら優等生をやめて、生きたいと思う。