仕事と心のDiary

デトックスのための文章

人間、体を壊すこともあるよ。

「マスクを追加配布する」と報道が出た時、総理の体調に異変が起きているのだろうと思った。元々精神疾患があるとも聞いていたのと、いくら何でもとんちんかんさが度を越していると感じていた。費用を抑えて配布する(というか、予算分をさばかなければいけない)のなら、使えるものだけを必要な施設に備蓄させることで解決出来ないのかと感じていた。

 

確かに安倍政権は、政策が後手に回り、税金の使途も「今まで一体何を?」というスキャンダルが度々出た。最近は政府vs都知事みたいな構図で混乱したし、支持するのは無理だ。でもそれと分けて考えたいのは、総理も人間だということ。体を壊すこともある。

 

必要なのは、こういう時に代理指揮できる体制を日頃から政府内で作っておくことだとあらためて思った。「国の統率者が簡単に倒れてどうする」などと糾弾していても、首相の体調が良くなるわけでもなければ財源が増えるわけでもない。

 

news.yahoo.co.jp

 

起きる事を本当に自分事として捉えていたら、こういう記事は生まれない。息巻いて思う存分、愚痴を言ったというのは理解できる。けれど、その先は…?

 

「だからこうしていくと良いのでは」「こういう方法もある」と自分の頭で掘り下げることをせず、多くの人に声を届けられる立場にいるというのはとても稀有なことだ。

 

逆に読み手の同情心を誘発する目的で奇抜な寄稿がされたということも考えられるが、どちらにしてもコロナは「戦争」ではないし、タイトルの「国民」を「私」に変えた上で、個人のSNSで発信した方がいい。

「Thank You」が手書きじゃなくなった気がする。

先日久しぶりにスタバへ行ったら、オーダーがカップへの直書きではなくシールに変わっていました。半年ぐらい前に頼んだ時は、まだマジックで直に書かれていた気がするんだけど…。

 

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私が昔スタバでアルバイトをしていた頃は、この「Thank You」の部分をサイン風にアレンジしたり、言葉やイラストを自分で考えてカップに書くことを楽しみながら働いている人がいました。

 

そうしたカスタムメイドな所にユーモアがあって面白かったけど、多分カップに必要以上に触れないよう、配慮してこういう形になったのかなと思います。

 

もしウイルス対策なら、今後もう手書きには戻らないような気がする。たとえいつか落ち着いたとしても。こんな風に色んなことが、この時代と一緒に変わっていくんだろうと感じます。

やめることにしたこと。

自分に合ったものを選んでいきたいと心から感じるようになり、ウイルスが心配で行動は制限される昨今だけど、出来るだけ自分の心地よさを意識しながら生活しています。

 

私は視力が本当に悪く、その分(?)聴力と嗅覚が良い方なのですが、それで困ることも多くて、聞きたくないのに聞こえてくることが多い。

 

昔から、TVの大きな音、お皿を片付けたり洗う時のガチャガチャした音、ドアの開閉、他にも機嫌の悪そうな音というのがどうしても耐えられず、耳栓が手放せません。いわゆる地獄耳だと感じるし、大好きな映画やカフェも、たまに辛い時があります。

 

あとは、光。視力は弱いのに、TVは省エネモード(画面が少し暗くできる)を頻繁に使っているし、寝る前の数時間は間接照明で過ごします。寝る時にビデオデッキやエアコンの電源ランプの光が気になり、付箋で隠したりしていました。携帯もPCも、ブルーライトカットのアプリを入れています。

 

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そういった気質は直さなければいけないものと捉えていたので、逆に騒がしい場所で集中したり眠る訓練をしていたこともあるけど、もうそういうことはやめようと思っています。ざわざわと動悸がするだけで、克服できなかったから。

 

よく聞こえてくることも、匂いや光に敏感なことも、人の顔色や雰囲気を感じやすいことも、全部自分だから大切にしていくことにしました。こういう体質に無理のない環境を選ぶのは難しいけど、それも私の人生の課題なのだろうと思います。

 

そして、自分の感覚を否定するのももうやめることにしました。確かに、他の人が気にしないようなことを悩んだり傷ついたりして時々本当に面倒になるけど、自然の中を歩いたり音楽を聴いて感情が溢れる時、香水の香りで遠くの風景をどこか懐かしく思い描いたりする時に、本当の自分自身に戻ったような感覚になるからです。

 

利益を生むとか、誰かが作った会社の理念を実現することに自分のエネルギーを注ぐより、何かに一々感動したり、美しさを味わうことにできるだけ多くの時間を使っていきたい。それが出来なくなるほど、無理に何かをすることもないと感じます。

品性について考えさせられたこと。

スキャンダルがあったのではとネットで騒がれている男性タレントのSNSに、多くのコメントが寄せられているのを見ました。ただ、それは糾弾のようなものではなくて、そのタレントがファンにとても愛されているというのが伝わってくるものでした。

 

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その中に、このような言葉がありました。

 

「私は芸能人としてのあなたが大好きで、いつも支えられている。だけど、プライベートのあなたのことは気になりません。私生活は私達と同じ人間であって、どこでどんな息抜きをしようと、私には関係がないと思っている。あなたは芸能人の立場で、私にいつも楽しみをくれています。感謝しています」

 

この方凄い、と感じてしまいました。事実は知らないけど、分かろうと思わないという。でも、そのタレントは彼女にとって紛れもない”推し”であり、決して熱が無いわけではない。

 

普段楽しませてもらっている分、相手の私的なことには踏み込まないし、その権利がない。そういう考え方のように感じます。人って中々、こんな風に弁えられるものじゃないと思う。こういう品性を持ちたいと感じた言葉でした。

『半沢直樹』で感じた、何年働いても変えられないこと。

半沢直樹』を観ていて、半沢直樹のような上司の元で働ける森山は、大変な事も多いけど幸せだなと感じた。

 

仕事をするなら、その先に待つお客様の利益や、将来の姿をいつも想像すること。それを忘れた時、人は内向きで、独りよがりな仕事をするようになる。

 

大事なのは、正しいことを正しいと言えること。

 

ひたむきに誠実に働く人が、ちゃんと評価されること。

 

大企業で働くことや大金を動かすことが勝ち組なのではなく、プライドを持って誠実に仕事をして、それに本当に満足できることが勝ち組なんだ。

 

そういうことを半沢直樹は言っていた。

 

ーーー

 

クライアントのために誠実に仕事をしている仲間が評価されず、社歴が長いだけで周りにどんな態度を取っても許されると思っている人を上司が見て見ぬ振りする。

 

真面目で優しい人が負担を増やしていく姿を見ているのが嫌で悔しくて、働くってこんなことじゃなかったはずだと思っていた。

 

wasuresasete.hatenablog.com

 

昔から、私はそういう理不尽さが大嫌いだった。一杯いっぱいな状況でも、周りの負担にならないよう自分の出来る限りの気遣いをしながら立ち回っている後輩がいたら、サポートして時には盾になることも年上の役目なのに、その姿勢に付け入るように急ぎでないようなことをやらせたり、上司でもないのに後輩頼りで楽をしようとする人がいた。

 

社歴が長いだけでそれが許されて出世までするのなら、自分も社歴が長くなるにつれて感覚が麻痺していくだけなのではないかと感じていた。声の大きな人が有利な席を得て、その人達を支える優しい人が報われない。一緒に頑張っても、限界があった。

 

名前は忘れてしまったけど、どこかの会社の偉い人が「会社というのは、元々が理不尽な場所だ。その中でどう在るかだ」と言っていた。社会というのは確かに、元々がゼロベースではないのかもしれない。でも、私は何年働いても、未だにそれに慣れることができない。

 

優しい同僚が何を支えにしていたかというと、プライベートという人もいたけど、「自分なんてこれぐらいやって当たり前」とか、「もう諦めている」という人もいた。当時は私も自分のことで精一杯だったけれど、今は少し理解できる気がする。頑張っている人ほど、心の深い所では自己肯定感を持てていなかったり罪悪感があって、自分の状況を客観的に判断できなくなっているんじゃないかと思う。

 

社会というのは綺麗ごとではないし、理不尽な場所だと考えておいた方が失望しないで済む。でも、そこに無抵抗に埋没していくのではなくて、誠実でひたむきな人が評価されることを求める半沢直樹のような思いをやっぱり忘れたくないし、自分の頑張りを自分で認めるということも、時にすごく大事なことだと感じる。

 

魔性というより悪女、というより悪魔。

『秘密と嘘』という韓国ドラマで「彼女はお前が手に負える女じゃない。沼のような女だ」と陰で釘をさされるような悪女が出てくるのですが、韓国ドラマって本当に、欲に狂った人とか、元は良い人だったのに欲に負けて様変わりする人がよく登場するなと思います。

 

このドラマの悪女(ファギョン)には恵まれない生い立ちがあり、嘘によって幼少期に財閥に引き取られます。地位のためなら自分を愛してくれる人も簡単に裏切るし、人が何を失おうと知らん顔。そこに「そんな彼女を理解できるのは自分しかいない…」と(勘違いした)男性が現れ、彼女の思惑通りに悪事が進んでいきます。

 

このファギョンのキャラクターが、「役立たずのブタ!」と叫びまくっていた全盛期の小沢真珠を見ているようなのです。カルメン(ドS)交じりのマノン・レスコー(可憐)という感じでもあります。

 

悪女入門 ファム・ファタル恋愛論 (講談社現代新書)

 

この書籍では、マノン・レスコーは『健気を装う女』。出会った男性が自分に運命を感じているようだと悟った瞬間、「明日から修道院に入らなければいけないの…(あなたと会えなくなるから、行きたくないけど…)」と言う。

 

どうしてほしいかを敢えて言わず男性に委ねている所に、相手の想像力を掻き立てる感じがあります。本当に、そもそも本気で彼の元を去る気があったらこんなこと言わないと思うし、天性で相手の本質がビビビっと理解できてしまっている感じ。元々マノンの両親は彼女の依存症的な性格を見抜いていたから修道院に預けることにしていたわけだけど、修道院の方が崩壊しそう。

 

男性は危なっかしいマノンに「この女を救えるのは自分だけだ」と尽くすが、マノンはお金にしか興味がないし、その「出所」には一切興味がないので、彼がどれだけ友人を失くそうが借金抱えようが、差し出してくれたお金に最高の微笑みを返すだけ。

 

このマノンの「健気で、“あなたがいないと駄目なの”を巧妙に出しながら相手に自然と貢がせる、その実貧乏嫌い」な面と、カルメンの天然の魔性が少しずつミックスされ、悪魔化したのがこの『秘密と嘘』のファギョンだと思うのです。

 

www.bsfuji.tv

 

ネタバレになりますが、ファギョンは自分を追いかけてくる男性(ジェビン。町の食堂の息子)に最初は見向きもしないんだけど、ある時自分が養子だとばれて財閥から追放されそうになり、「ジェビンを財閥の孫にでっちあげて結婚してしまえば、自分も財閥に残れる」と考えます。

 

ジェビンはまんまと騙されて財閥入りしますが、自分が本当はその家の孫ではなく、ファギョンがすべてを仕組んでいたと知ります。ジェビンは傷つき、ついに最愛のファギョンと離婚します。…となるはずなのに、雲行きが違う。凡人の感覚だと、この状況なら立場が逆転してファギョンがジェビンにすがるの?と予想するけど、よく考えたらマノンとカルメンが男にすがるはずがない。

 

ファギョンは逆に「あなたなんかもういいわ」と言い放ち、自分に言い寄っていた他の財閥の息子を誘惑し始めます。しかも何度も、「ジェビンの目の前で」。そして、「あなたが本当の孫じゃないと財閥に暴露するのなら、私は彼の元に行きます」と宣言。ジェビンは憎しみと嫉妬に苦しみ、結局デ・グリューやホセと同じ道を辿るのです。

 

www.instagram.com

 

ファギョン役のオ・スンアさん、美しすぎます。

ライフでもライスでも。自分の働きがどこでどう役に立っているかは、意外と分からないものなのかもしれない。

”仕事はほっとできるひととき”―。この感覚は自分にはないものでしたが、世の中には働くことをそんな風に捉えている人もいるんだなと感じて、月並みですがカルチャーショックを受けたような気持ちになりました。

 

長く、静かに、情熱を踊りにささげて。仕事はほっとする時間 - らしさオンライン | リクルートスタッフィングが運営するオンラインマガジン

 

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フラメンコを生きがいとされている方のインタビューで、俗に言う「ライフワーク」と「ライスワーク」について考えさせられる記事でした。

 

以前は、週末も仕事を引きずって息抜きにまで気を回せなくなることが多かったのですが、この記事に出てくる方はその反対の生き方をされている。軸足が違うのです。仕事の方がむしろ癒しになっているという状態。

 

現地の方は小さなころから踊っているのもあり、スピードや迫力、何もかもが体に染みついています。私はどうしても『日本人が踊るフラメンコ』になってしまいますが、『日本人だからこそ踊れるフラメンコ』を目指したい

体力的にも精神的にも張り詰めているフラメンコに対して、仕事はほっとできるひととき。仕事があるから経済的に余裕ができるという意味でも、私に安心をくれています

 

この方にとっては、踊りという人生を掛けて取り組んでいきたいことありきの仕事であり、生活なのだなと感じました。

 

悩んだ時、初心に戻る感覚でよく手にする本があります。平原綾香さん『Jupiter』の作詞を担当された、吉元由美さんという方の『自分という物語を生きる 心が輝く”大人のシナリオ”』(水王舎)という本です。

 

自分という物語を生きる 心が輝く"大人のシナリオ"

 

人が本来持つ特質を発揮することを「魂のシナリオ」と呼び、それが必ず誰にでもあると信じてみよう。与えられたものを磨き、実践して役立てていく。自分が幸せだと思うことを、忘れないでやっていく。世の中はそうした個々の才能の分かち合いで成り立っているんだよと、教えてくれる本です。

 

仕事でもボランティアでも趣味でも、何でもいいのです。そこに生きている喜びがある。役に立っている喜びがある。創造の喜びがあるのです。

読みたい本を読めるだけ読みたい。

仕事、アルバイトをする。

書籍代の予算を確保する。

本を読む時間を確保する。

思う存分、読む。

 

シンプルすぎます。でも、こういうことなのです。

 

最初の記事の女性は、自然とこうしたことを実践されているのだと思いました。

 

何かをすることが人の役に立っているのかというのは、様々な見方があるとも感じます。この女性の場合は、踊りを見た人からダイレクトにその感動が言葉として届くかもしれないし、回りまわってその生き方がこういった形で記事になり、それを読んだ顔も知らない誰かが「いいな、素敵だな」と思っているかもしれない。

 

自分がやり続けている何かがあるとして、それがどこでどのように他人に影響を与えるかというのは、意外と分からないものなんだなと思うのです。

 

先日初めて知ったのですが、ディズニーランドにはタートル(※「クラッシュ」という名前らしい)のキャラクターに人生相談できるアトラクションがあるようで、そこで「なおこ」さんという女性が、「働きたくないんです」と相談している動画がありました。

 

少し昔の自分ごとのように聞いていたら、クラッシュの回答がシンプルなのに、なんか良くて。やっていることが何であろうと、それがどこかで誰かの笑顔に繋がっているとしたら、それで十分、自分という存在を活かしていることになるのだと思いました。

 


🔵【クラッシュの解答に感動して涙】働きたくないんですけどどうしたらいいですか【タートルトーク】東京ディズニーシー

 

6:01 

クラッシュ)え、それはさぁ、最終的には誰かを笑顔にしたりとかしてんのかい? 

なおこ)してるはず、です…。

ク)ほおーーっ じゃあなおこ、別に嫌なことじゃないんじゃないかい?

 

そんな風に言ってくれるクラッシュも表向きタートルだけど立派に人なわけで、ディズニーの看板を背負うプレッシャーも絶対にあると思うし、役目をどう感じているかまでは分からない。でもそれがなおこさんを笑顔にし、そこにいる人達に気づきを与えて、果てはその動画を観た私のような人間のブログにまで、いつの間にか書かれていたりする。

 

コメントの中には、「とりあえず、自分もなおこの仕事にどこかで笑顔をもらった可能性があるので、お礼言わせてください」という言葉もあって、こういうのはいいなと感じるのです。どこで繋がっているかは、自分では分からない。それに気づけていたらと、自分の過去をあらためて振り返ります。想像することで、色々なことが変わる可能性を感じます。